大混乱が待っていた

                         桐井加米彦
                         (当時:国民学校4年生)

 8月15日の正午の玉音放送をラジオは前日から繰り返し予告していた。

 天皇陛下の放送は「重大時だから、しっかりやれ」という激励のお言葉だろうと誰しも信じていた。ところが初めて聞くお声は弱々しい上に独特なご口調、それに雑音が多くてよく聞き取れなかった。しかし、「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・・・」のくだりで私たちはようやく無条件降伏の現実を知ったのである。

 子供であった私にはよく分からなかったが、多分、当時の大人たちは茫然自失状態であったと想像する。先生や親たちから「日本は必ず勝つ」と信じ込まされていた。特に母は「きっと神風が吹いて必ず敵をやっつける」と言っていた。

 しかし、私はたとえ勝つにしても昼夜を分たずの空襲で、生命の危険にさらされていたのでは、子供心にも戦争は嫌だと感じるようになっていた。果たせるかな日本は敗れた。当時、先生方もどう取り組むべきか分からなかったというのが本音であろう。
 
 大混乱が待っていた。米軍が上陸したらきっと婦女暴行などが行なわれるだろうと流言蜚語が飛びかった。それを恐れた両親はまたしても転居した。

「詩とエッセーの広場」
http://www.oct-net.ne.jp/~k-kirii/



         数日間庭で日本刀を振り回した

                          多田 清
                       (当時:在郷軍人元陸軍軍曹) 

兵暦十二年の鬼軍曹、ニューギニア前線で遺骨宰領命ぜられ、運良く無事帰国。宇都宮、高崎、甲府、佐倉連隊にて任務終わり。宇品を始め、すでに、船舶無く、原隊待機。

終戦半年前、在郷軍人となり、東京空襲にて、秩父に疎開。『本郷連隊区司令部』命令、経験豊かな、多田軍曹は秩父の地形(自然に出来た穴)を活用し、米軍上陸したら追い落とせ、満州の馬賊、匪賊討伐の反対だ、お前なら出きる。

鬼軍曹は役場に連絡、13、4歳の青年を学校に集め、竹槍作り、エイヤー、毎日訓練。小洞穴に米、味噌、貯蔵、夜な夜な出撃して戦えと命ぜられました。

八月十五日、ラジオ玉音に聞き入り、その後家内がゆうに、鬼軍曹は毎日庭に出て日本刀を振り回し、エイヤア、と、数日続けた、とのこと、よく覚えがないのです。今にして、考えると、アフガンにならなくて、良かった。

「古い兵隊さん 多田 清」
http://members.tripod.co.jp/k_tada/



         その日に汽車で熊本から神戸へ

                                岡本春樹
                          
(当時:大学2年生)

あの時は大学2年(工学部だったので、徴兵検査は済んでましたが、卒業まで猶予されてました。)の夏休みでした。神戸に住んでましたが、祖父母のいる熊本に墓参りに帰りました。

8月5日の夜友人と2人で神戸を発ちました。岡山に着くと空襲警報で汽車は止まってしまいました。そこへ明朝8時広島の連隊に入隊するのだと言う応召兵(40近い)の方が私どもの席に乗ってこられました。見送りの人から貰ったので食べてくださいと美味しい桃や葡萄を下さいました。

汽車はやがて動き出し、広島には7時に着きました。その方は間に合いましたと喜んで降りて行かれました。カンカン照りで暑い朝の広島駅のプラットホームは綺麗に打ち水され、通勤のサラリーマンや学生達が忙しく構内を行き来して活気に溢れていました。

広島を出てすぐ私達はブラインドを降ろし眠りました。暫らくするとガーンと大きな衝撃を感じ目が覚めました。ブラインドを開けて見ると、汽車は宮島と岩国の間付近を走っているようでしたが、宮島の向こうの空に大きな雲がむくむく湧きあがっていました。畠ではお鍬をかついだ百姓さんたちが走っていました。あれはひょっとして呉軍港の火薬庫でも爆発したのと違うかな、などと話していました。その日の夜熊本に着き、祖父の家に落ち着きました。その後2,3日して真っ赤な小便が出たのには驚きました。

当時、空襲警報は福岡を基準に発令されるので、沖縄からの米空軍機は熊本では警報無しでしょっちゅう飛来してました。或る日の空襲は祖父の家の有る郊外の部落を狙って来ました。田圃の上10米位を水平に機銃を撃ちながら飛んできます。我々は慌てて濠に避難しましたが、だんだん酷くなるので合間を見て横の崖下の窪みに移りました。前は竹薮で敵から見えません。

2,3キロ離れた市内を見ると矢張り数機の敵機が低空を飛びながら機銃掃射しています。うち1機がこちらに向かってきました。目の前の竹薮をザーっといわせて急上昇します。その時後部座席で機銃を乱射してる米兵の顔まで見えました。米機はA26と云う双発の軽爆撃機のようでした。暫らくして静かになったので家に帰りましたが壁に数発弾が貫通してました。あぜ道にはあちこちにキラキラと真鍮の薬莢が散乱してました。

15日昼には近所の家に集まってラヂオを聞きました。雑音が酷く、天皇陛下の言葉も難しくて始め意味は良く判りませんでしたが、どうも負けたらしいと皆が云うので早く神戸に帰らねばとすぐ支度し、リュックに芋や大豆などを入れて駅に行きました。

九州管内の機関車は皆ボイラーに機銃で穴が開けられ動きませんと駅員は云いましたがとにかく動くまで待つからといって切符を売ってもらいました。駅の構内はもう復員する兵隊が数十人いました。待合室の壁には「檄!九州帝国は独立して戦う。男子は皆武器を持って集まれ。女子供は食糧を持って○○の山中に避難せよ」と書いた畳1畳ほどの紙が貼られていました。

日が暮れて暫らくして最初の汽車がヤット来ました。車内は皆兵隊でした。大きな袋を持ってましたが、民間では見ることの無い砂糖や毛布などが詰まってました。久留米に着くと町は未だ燃えてました。筑後川の鉄橋は爆撃でV字型に折れています。我々は荷物を背負って枕木を1歩1歩注意して渡りました。鳥栖も燃えていてその明かりが頼りでした。

門司が近づくと中国軍が上陸してると云う情報が伝わってきて、兵隊は皆慌てて襟の階級章をちぎったり、軍隊手帳を捨てたり、軍服を平服に着替えたりしていました。

しかし朝門司に着いても静かでした。連絡船は林のような沈船のマストを縫って対岸に向かいます。機雷にも触れず下関に着きました。岩国駅は爆撃で操車場は穴だらけ、線路は曲がり貨車は何台もひっくり返っていました。

広島には日が暮れてから着きました。真っ暗でプラットホームには数本の電柱があるだけ、何もありません。唯異様な臭気だけが漂っていました。2,3時間待って次ぎの汽車が来たので我先に乗りました。私は窓からリュックを放りこんで窓によじ登り転がり込みました。超満員で網棚にも人が横になり、座席の背もたれに乗って網棚に掴まり身を支えている人もいました。

翌朝遅くやっと神戸に着きました。ここでは未だ軍服に軍刀を下げた将校が歩いていました。出発以来連絡が取れなかった自宅に帰ったら皆物凄く喜びました。

「春樹の雑記帖」より
http://homepage3.nifty.com/harukinote/



     満州国軍が叛乱したとのニユースで
                       
                        桑原靖夫

                        (関東軍兵士)

昭和20年(1945年)8月15日兵舎に誰かが持ち込んだラジオで天皇の終戦の詔勅を聞いた。

しばらくすると満州国軍が叛乱したというニユースが伝わってきて、急遽銃と弾薬が支給され兵舎近辺の警備についた。午後5時頃になって突然現在の兵舎を引き払って移転せよという命令がくだり、荷物を輜重車に積み込み移転を開始したが生憎の豪雨でそれに満州国軍の駐屯地方面の銃声と雷鳴も加わり私の荷物を積んだ馬が棒立ちとなり反乱軍の方面に疾走してしまった。

私は軽機関銃を持って新しい兵舎に入ったが豪雨でズブ濡れになってしまった。後で知ったが関東軍は一般市民を捨てて延吉方面に逃げていったとのことであった。

私達は「糧秣調達」という名目で逃げて留守になった軍属の舎宅にゆき略奪をおこなった、軍属の舎宅には白米、砂糖等日本国民が飢えているときにあらゆる物資が揃っていた。私達はそこでゼンザイをつくってたらふく食べ久し振りに風呂にもはいった。

8月20日頃南嶺(新京の東北方面)の兵舎に移転することになった。到着すると他の部隊も続々と集まってきていた。それから3日後になって兵舎の周りにはマンドリン銃を担いだソ聯兵が巡回しはじめ我々はソ聯兵の捕虜になったことを知った。

「私のホームページ」
http://homepage2.nifty.com/kuwaharayasuo/




              皆無口になった

                          大隅良平
                          (当時:東京防衛軍兵士)

 警報もなく静かな朝であった。命令が出され、十一時まで原宿にある部隊本部に全員集合せよとのことだ。T上原寮仮兵舎の前庭で点呼がある。徒歩で代々木練兵場の横を近道して大急ぎで行く。略装の身軽さから充分間に合った。

 広くもない部隊本部の前庭に各隊がぎっしりと並ぶ。樹木の間から暑い日差しが照り付ける。だれの顔を見てもさえない。栄養不足なのだ。入浴をしていないので汗と脂の異様なにおいが漂っている。

 正午、大元帥陛下の肉声がラジオから流れてきた。不動の姿勢で聞く。

「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ・・米英支蘇四国に対しその共同宣言を受諾する旨通知せしめたり・・」

辺りは静まり返っているのによく聞き取れない。

「・・時運のおもむく所耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す・・」

ここのところははっきり聞こえた。

 「・・任重くして道遠きを念い総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をかたくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし・・」

一瞬どよめきがあちこちで起きた。

 まさか戦争終結であるとは思ってもいなかったからだ。本土決戦を遂行するに当たり、ますます忠君愛国の精神を堅持し一人残らず肉弾となって戦い勝利せよ、という詔を予想していた。しかし長い長い戦争はこれで終わった。

 帰りの道では皆無口になる。我ら兵隊に対する処置が不明だからである。敵の軍門に降った以上何らかの強制はあるはずだ。捕虜となって過酷な労働を強いられたり、はては外国にまで送り出されるかも知れない。予期しない惨めな運命が、随所に待っているような気がするからだ。共同宣言の中身を知る由もないだけに、一層その思いを強くする。帰隊後は喜ぶでもない、悲しむでもない、複雑な心境で身辺の整理などをして過ごした。

「我が兵隊史」より
http://www4.justnet.ne.jp/~ships/top-index.htm




            私の終戦の日
 
                加藤福平
               (当時:18歳 ハワイ収容所、元サイパン軍属

 終戦の日 8月15日 を書いてみたらと娘に言われて、それでは書いてみようと書き始めたが、終戦の日に何処で何をしていたのか、私の記憶の中に残っていなくて、18歳になっていたことは間違いなかった。

 思えば、昭和19年6月15日にサイパン島に米軍が上陸。私達軍属はいっせいに山中に逃げ込んでいて、激戦の末に玉砕し、島は米軍の手に陥ったのです。その後私は山中で度重なる敵の掃討を逃れ1年余り過ぎ、沖縄の戦闘が終わった頃に、山中で米軍に収容されました。

 栄養不良と疥癬で医務室通いをした後、米国送りの船に乗せられ、10日あまりの航海のうち、幾度か甲板へ出してくれて海と空を眺めることができました。

 ハワイへ着いてマリン収容所へ入り、そこでサイパンから乗船した200余人の中で20人程残して皆米本土へ行きました。どういう選考かは知らなかったが、未成年の私と他2人とあとは皆上級下士官ばかり残ったのです。

 米本土組が出発した翌日に、私達もアミー収容所へ移り、10人程は入れるテント幕舎で、昼間は2人づつ作業に出たのです。マーシャル群島から来た吉川さんと2人で、トラックでワヒアワ町まで食糧を取りに行くのが仕事で、荷台半分ほどの荷物の中で収容所へ帰るまで車の上に乗っていた。

 1週間ほどの食糧運びの後、またも移動で今度はダイヤモンドヘッドの下にある収容所へ移る。そこでは、海岸の鉄条網はずしや、演習場にある兵舎の片付けなどしていました。

 思えばアミー収容所からこの収容所へ移動した前後の時期に、「終戦の日8月15日」があったのではなかろうか。

 前の年にサイパンで米軍が上陸して以来、アミー収容所まで、カレンダーの無い、そして「今日は何日か」と言うことの必要の無い1年余りでした。敗残の山中生活の終わり、即ち米軍に収容された日、これが私の終戦の日でありました。

「サイパン島・17歳の敗残記」
http://www.tcp-ip.or.jp/~kanemura/html/world.html



              母の涙は安堵の涙

                        布村 建
                         (当時:国民学校3年生)

  農作業から帰って終戦の報せを聞いた母は,土間の入り口に立ちつくしたまま泣いた。負けた口惜しさからと当時は思っていたのだが、後年あの涙は本土決戦となれば間違えなく戦闘要員としてかりだされる二人の兄を死なせずにすんだ安堵の涙であったのだと気づいた。

 実際に身内や親しい人をなくしたり、無残な死体の山を見たことのない子どもにとって戦争はスクリーンの上の出来事でしかない。小学校低中学年であった”私の戦争”はニュ−ス映画でみる勇ましい兵隊さんや、学校の廊下にはられた“神風”の写真であり、同世代が集まれば尽きることのない話題となる飢餓感である。

 しかし、生涯忘れえぬ鮮烈な光景が一つだけある。昭和20年8月3日、富山市の夜間空襲である。戦火を避け、富山平野がつきる台地の開拓地に入植した私たち一家は寝巻きのまま遠望した。地方の小都市としては3000人という大量の死者をだした空襲。晴天無風の夜。炎は天に至った。原爆のきのこ雲のかさの部分を赤とオレンジ色に染めた形である。高度を上げ帰投するB29の編隊は青白い魚影のようにみえた。

 翌朝市の方向を見れば、眼下に広がる青田が風にゆれるのみ。あの華麗な火煙が地獄の劫火であったという実感はなかった。戦争と死を結びつける想像力がはたらかなかったのである。

 8月15日以前と以降、小学3年生の日常は何の変化もなかった。その後も、小中をとおして戦争について教えられた記憶はない。

 平和教育の根本は、ヒロシマ・長崎を語り継ぐだけではなく、300万の日本人がどのように死んだか、そして中国や東南アジアで日本軍がどれだけの親のない子、子のない親を作ったかを具体的に教えることにおくべきであろう。
         


富山県保内村松原より見た空襲の)記憶



             万歳っ!空襲がなくなる

                        横川公彦

                          (当時:国民学校3年生)

夏休みなのに,真夏なのに、空には明るい太陽と白い入道雲がはじけるように耀いているのに、来る日も来る日も空襲に怯え蒸し暑い家の中でつまらない夏の日々は過ぎて公彦の小学校三年の夏休みは後半へ入ろうとしていた。

八月六日、広島にB29から新型爆弾が落とされたと言うニュ―スが全国に流れ続いて九日今度は長崎に同じ新型爆弾が落とされた。

大人達は全く意気消沈して八月十五日になった。空は朝から真っ青に晴れ上がって真夏の太陽はキラキラ耀いていた。その日、親達は何か重大な放送があるとかで朝から家にいた。日中になるにつれて気温は上がりとても家の中だけにいられなくなった公彦は庭の柿木に登った。空襲になったら一目散に家に逃げ込める態勢をとりながら涼しい木の上で遊んでいた。その日は珍しく昼近くになっても空襲は来なかった。

正午近くになった頃「ピ―ッ、ピ―ッ」とラジオから周波数を合わせるバリコンを回せと言う合図が鳴った。(ほれっ、空襲だっ)うんざりして木からスルスル下りかけながら家の中を覗いたら、祖母と両親と六年生の兄の三人がラジオの前に座っていた。(なんだ、空襲じゃあねえのか)ほっとして木から下りるのを止め再び枝に腰を下ろした。其処からなら家の中が良く見える。

やがてラジオから声が聞こえ始めて来た。(?・・・)何とも聞き慣れない声である。空襲警報の時みたいに忙しなくない。耳を済ませた。やっと少し聞き取れ始めた。「・・・がたきを・・・し・・・」それは今までに一度も聞いた事のない声だった。(?・・・)と、その辺りから祖母と両親の様子が何時もと違う事に気づいた。三人は泣いているみたいだ。

(・・・?)公彦はふと去年の冬に急性肺炎で亡くなった弟の事を思い出して不安になった。(何か良くない事らしいぞっ!)公彦は慌てて木から滑り降りて家に飛び込んだ。両親と祖母の目は真っ赤だった。「どうしたの?、誰か又病気になったの?」公彦は急き込んで聞いた。「戦争に負けた」父がポツリと答えた。(戦争に負けた?)公彦は咄嗟にその意味が判らなかった。

「戦争に負けたってどう言う事?」公彦はポカンと皆を見回した。「戦争に負けたって事は戦争が終ったと言う事だ」兄が答えた。「じゃあ空襲はどうなるんだ?」・「空襲もなくなるよ」・「何?空襲がなくなる?、本当か?」「本当だよ、空襲はなくなるんだよっ!」兄の言葉の終わりの方はやけには力が入っていた。

(空襲がなくなる。空襲がなくなる・・・そうかあっ)突然公彦の脳天に喜びがダダダッと駆け上った。「空襲がっ,空襲がなくなったんじゃあ、大川へ行けるじゃんかあ,水浴び(水泳)がもう出来るんじゃあっ」公彦の脳天は今日の空みたいに明っかるく真っ青に晴れ上がった。

「万歳っ!万歳っ」思わず大声で叫び家の中を駆け回った。「ばか者っ!戦争に負けて喜ぶ奴があるかっ、この非国民奴っ!」跳ね回る公彦を捕まえて捻り倒して馬乗りになって、ゲンコツを振り上げて殴る真似をする兄の顔もクシャクシャに笑っていた。

親達が沈み返っている家から庭に飛び出して見上げた空は、空襲を警戒しながら見上げていたさっき(つい先刻)までと同じ空なのに、今はなんと青く、何処までも高く、果てしなくのびのびと広い、昭和二十年八月十五日の何とも明るい空だった。

この文章は、横川さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「横川公彦の歴史小説のページ」
http://www.ko-bayashi.com/



             カンカン照りであった

                        齋藤 彰

                          (当時:国民学校6年生)

 あの頃聞かされていたのは、アメリカは日本本土に向かって雲霞のごとく押し寄せて来る。日本はその時を待って一斉に攻撃を加える。戦力は温存してある。予定してある水際作戦を行うのである---その時期は秋である。

 -----そんなシナリオだったと思います。そうだとしたら、うまくいけば台風がやって来て敵艦船をひっくり返すかも知れないし、飛行機も飛べなくなるに違いない。「---もしかしたら....」との、淡い期待感があったのは事実でした。つまり「神風」を期待する心理ですよ。子供だったからそう思ったのか、それとも日本国民みんなそう思っていたか、それは分りませんね。とは云え、それを口に出して「神風が吹くぞ」とは誰も云ってはいませんでしたが・・・・。

 然し、一方、沖縄戦終了(7月始め)、新型爆弾(原爆、8月6日)、そしてソ連参戦(8月10日)「駄目だこりゃ」と思ったのも事実でした。日本が負けたらどうなるか---それは勿論分りません。ともあれ「もう駄目だ」と何度となく思ったのだけは覚えています。

 15日の玉音放送はチンプンカンプンでした。放送を聞いた事だけは覚えていますが、その他どんな一日であったか、カンカン照りであった----位でしょうか。日本は負けたらしい、とは小耳にはさみましたが、確かだとは思えませんでした。

 翌16日の朝、新聞を見て初めて事態をはっきりと掴みました。疎開先の田舎から祖母と共にその日に山形市に戻り、その日の夜から張り巡らしていた暗幕を取り除き、煌々とデンキをつけて寝たのですが、ホントにこれでいいのだろうか、とチラと不安がよぎったのはオマケの記憶みたいです。

 山形県は、京都、奈良、山陰地方と並んで最も戦災の少ない県でした。幸運だったと申すほかありません。

「平林寺の不思議」
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/



            木製飛行機の開発中に

                        加藤禮一

                     (当時:軍需省、海軍技術大尉)

53年前の此の日、東京はカンカン照りの暑い日であった。

軍需省に勤務して居たのだが、空襲が赦しくなって来たので、虎ノ門の庁舎から、少し離れた学校へ引っ越して間も無しである。私は海軍技術大尉だったが、恐らく佐官級まで位には内々予告されて居たのであろう。朝から何となく重苦しい様な雰囲気の中で、正午前に全員運動場に集合の命令が出た。『今頃どう言う事なんだろう』『最後まで頑張れと仰言るのだろうか』等、色々憶測して居る内に史上ハツの『玉音(ギョクオン)放送』が始まった。録音技術が悪いのか、それとも未だ『人間宣言』される前で人間離れしておられたセイか判ら無いが、内容は良く聞き取れずに終わった。ただ『忍び難きを忍び・・』等と言って居られた様だったから終結の詔勅であったものと理解したのであった。

此の年5月初め同盟国ドイツが無条件降伏して欧州の戦火は収まり、我が国は愈々単独で世界を相手に戦う羽目になる。そして其の直後東京が大空襲を受け、最後の案の一つとして出たのが『木製飛行機』を急遽製造しようと言う案で、その関連で私の軍需省行きも決まったのである。余りにも短期間で何一つ実績も上げられなかった事も残念であったが、それ以上に、例え敵が本土上陸して来ても最後まで戦うのだ、と叩き込まれて居た身として簡単に割り切れるものでは無く、自分なりに納得するまでには数日掛かったと思う。

実は1941(昭和16)年12/8開戦して程無く、翌年2月にシンガポールが陥落した時点で終結するチャンスが有ったのである。海軍の山本(五十六 イソロク)司令長官等は早期終結派だつたが、陸軍は強行派であった。其の年(昭17)6月ミッドウェイ沖海戦で惨敗してからは完全に主導権は奪われ、昭和18/2ガダルカナル撤兵、4月山本元帥の戦死と敗色は濃くなるばかりであった。それでも新聞等では威勢の良い記事に溢れ我々一般国民は騙され続けたのである。

私達は大学を6ケ月短縮され、海軍技術士官コースを志願して18年9月、訓練期間を青島(チンタオ)で過ごす為に輸送船で送られた。宴処で私達は初めて戦争が大変な事態になって居る事を教えられる。

『軍極秘』のマーク入りの資料も見せて貰い、日本の軍艦は殆ど全部撃沈されて仕舞って居る事実、開戦当初から海軍と陸軍で意見が食い違って居た事なども教えて貰った。その後の経緯を観察して居ても、国力(物量)技術力どれを採っても彼我の差は開くばかり、到底勝負にならない事はウスウス判って来て居た。それでも戦わねば、と思い込んで居たのだ。政府でも進退に迷って居たらしいが、前項の原爆に加えて、調停役にとアテにして居たソ連が突如宣戦布告をして、8/9に満州へ進攻して来た。それでも一部の反対派は居た様だが、昭和天皇の英断でヤット終結したのであった。米国側にしても『本土上陸作戦』を何とか回避したい思いの、最後のカケに勝ててホットした事であろう。此の日は精神的な興奮もあり、誰にもが『長い長い一日』であった筈である

この文章は、加藤さんのご子息のご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「よろず雑学頓珍館」
http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/




               疎開から帰れる喜び
                         
                             村野寿美
                          (当時:国民学校5年生)

 「東京大空襲」のあと、第二次学童疎開が計画された。「死ぬときは家中で」と、親友は「残留組」に、「一人になってもしっかり生きていくのだよ」と父に言い含められた私は「疎開組」になり、五年生になったばかりの昭和二十年四月二十九日、あわただしく東京を発ち、仙台から少し離れた宮城県黒川郡吉岡町(現・大和町)のお寺へ疎開した。

 ぎりぎりまで行く先が分からず、荷物はあとから送るということで取りあえず身の回りのものだけを持った。空襲を避けて何度も止まる真っ暗な夜行列車の旅だった。

 六月にはいると空襲は地方都市へ移り、七月には仙台も空襲を受けた。この仙台の空襲で私たちの次に来た、第三次学童疎開の人たちの荷物は全焼した。そしてついに八月十五日の敗戦を迎えることになるのである。

 玉音放送は雑音で何も分からず、夕方近く職員会議から先生方が戻られて、はじめて戦争が終わったことを知った。負けた悔しさよりも「帰れる」「東京から小包が送れるらしい」ということで大喜びだった。

 電灯へ黒い覆いをかけなくても良くなったことへの戸惑いは大きかった。進駐軍が町へ来るというので、それ以後しばらくは外出禁止になった。

 あまり寒くならないうちに帰りたいと先生方も考えていらしたし、家からの手紙にも兄たちの復員や私の帰りを待っている様子が書かれていた。「帰れる」となると無性に帰りたく、私たちは帰る日の決まらないことにじりじりしていた。

 一面の焼け野原と化した東京へ帰ってきたのは十一月三日だった。母校杉三(杉並第三国民学校)は、防火壁と奉安殿を残して何もかもなくなり、高円寺駅周辺から青梅街道、中野の鍋屋横丁から新宿まで家が全部なくなっていた。

 再会の当てもなく駅まで送ってくれた父、子供たちの帰るのを待っていたかのように、私の帰京後二十日目に亡くなった病気だった母の気持ちを考えると、この戦争が当時の親にとっても、実に酷なものであったと改めて思うのである。

「羽村ばぁばの散歩道」
http://www.t-net.ne.jp/~smurano/



                玉音放送

                           菊池金雄
                          (当時:輸送船無線局長)

 ソ連軍機の猛追撃から必死で北鮮を脱出した残存船団は、昭和二十年八月十五日の朝、整然と舞鶴に向け日本海を避航していた。

  母国のラジオからは繰り返し重大放送の予告が流れ、無線部ではなるべく多数の乗組員に聞かせようと、通信室のスピーカーの線をあちこちにのばして待機していた。 われわれは、ソ連参戦という最悪事態に臨戦したので、おそらく最後の決戦を国民に呼びかける放送であろうと予想していた。

  正午玉音放送が開始された。しかし、その内容は理解できなかった。引き続き放送されたアナウンサーの解説で、戦争の終結を天皇が自ら放送したものであることを知った。

  この放送を聞いた乗組員の反応は、外面的には平静だった。 私自身は「戦火の海で数々の死線をくぐりぬけ、やっと生きのびることができた」のかと内心半信半疑だった。

  一部の軍首脳部以外は戦局のことなど知るはずもなく、ましてや日本が降伏するなどと、誰も夢にも考えていなかったことである。

  ただ私は、過日港で無線受信機のダイヤルを回していたとき、偶然「日本ポツダム宣言受諾」のデマ放送を瞬間的に耳にしたが誰にも口外しなかった。あの放送がデマでなかったとはとても信じられなかった。

この文章は、菊池さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

硝煙の海」
http://www.geocities.jp/kaneojp/



           将に晴天の霹靂だった

                           新田直人
                              (当時:関東軍少尉)

 ソ連軍は、八月九日未明よりソ満国境東西北三方面より侵攻し、怒涛の如く南下を始め、無防備の北満地区開拓邦人を血祭りに上げ、戦車による攻撃と空爆を加えて、無人の境を征く如く進撃したのだった。このような戦乱の中で八月十五日を迎えた。

「本日正午、重大放送があるので、奉天附近部隊は、八島高等女学校校庭で、ラジオ放送を拝聴せよ……」
との伝達があった。

 この日は、朝から快晴で、夏の暑い太陽の日射しが、容赦なく校庭を焼きつけていた。古ぼけた一台のラジオが、校庭の真中程に据えられていた。正午の時刻がきた。ラジオは、やがて

「ガアーガアー−朕はポツタム軍言を受諾ガーガアー朕は耐え難きを耐え万世のため、太平を開かんーーー朕の一家は……どのようになるとも………」

玉音放送は終った。今の放送は、終戦の詔勅であったと報ぜられたのであった。

 鳴呼 何と云うことか、将に晴天の霹靂だった。将兵一同は茫然自失、底なしの谷間に蹴り落されたように、皆一様に虚脱状態がつづいた。

 終戦詔勅を聞いて、各人の感慨は様々であった。これで平和が来ると思う者、玉砕は免れて生き残れたと思う者、軍人として天皇陛下に対し奉り、申し訳ない無念の涙に慟哭する者、早く家族のもとに帰り度いと焦る者など、終戦詔勅は各人の思考を撹乱させた。

 神州不滅の伝統的信念は、一夜にして大音響と共に崩壊し去り、天地の悪霊が、日本人の魂に襲いかかって来るかのようであった。

 既に去る五月、ドイツが無条件降伏して以来。、多くの満州国人は一労働者に至るまで、次は日本の降伏の順番だと、うわさしていたが、これが冷厳たる事実となった。心臓が止まりそうな衝撃であった。

 しかし、それでも一部将校と下士官の間では、このままソ連に降伏すること絶無念だ、耐えられん、詔勅はデマだと絶叫し、通化地帯山岳地で、ゲリラ隊を組織し、決起して対ソ戦を続けようと、勇士を募るなどの策動があったが、今さらにかまきりの斧をもって、敵戦車は撃てまい、無駄な戦をするより、陛下のご命令に従うべしとする説に、大勢は決したのであった。

この文章は、筆者のご親族のご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「シベリアの歌」
http://my.internetacademy.jp/~a01050035/siberia/frame/sibe00af.htm



                運命の八月十五日

                            永末千里
                            (当時:海軍・白菊特攻隊員)

 その当時、空襲の被害を少なくするため、 兵舎をはじめ基地の施設は、飛行場から離れ た場所に分散されていた。金谷の町から南側へ坂道を登り、牧之原台地を飛行場へ向かう 道路の両側は一面の茶畑である。その西側の林の中に小さなバラック建ての病室が設けら れていた。ここには、三十名程度の外傷患者が収容されていた。

 この患者の中に、飛行隊の搭乗員が二名含まれていた。過ぐる日、敵機動部隊の空襲の 際に交戦中負傷した者である。彼らを看護するために、同僚が交替で付き添いに行くことになっていた。

 看護と言っても別に仕事らしいものはない。空襲その他の非常に際して、彼らを安全な 場所へ退避させる手助けをするのが目的である。だから、航空食などを持ち込んで食べな がら、囲碁や将棋などで遊んでいればよかった。

 八月十五日、その日私がその病室当番に当たっていた。朝食を終えて暑くならないうち にと思い早めに病室に行った。過日の空襲で負傷した関戸兵曹(乙飛十七期出身)と雑談 していると、《総員集合! 格納庫前》の指示が出たので、患者以外の者は飛行場へ行く ようにと、看護科の当直下士官からの伝達があった。

 私は、せっかくの休養を兼ねた病室当番に当たっているのに、暑い最中を三十分もかけ て飛行場まで歩くのが厭なので、横着を決め込んで、空いたベッドに寝転んで雑誌を読ん でいた。

 やがて、午後も遅くなって、看護科の兵隊が総員集合から帰ってきた。そして、何やら ヒソヒソと話し合っている。どうも、戦争が終わったなどと言っている。

 「オイ! 総員集合で何があったんだ?」 「ハイ、天皇陛下がラジオで直接放送されました。雑音がひどくて、よく聞き取れません でしたが、分隊長の話では戦争は終わったらしいです!」 「エェッ! それ本当かっ?」

 半信半疑である。一刻も早く事実を確かめたい。こんな所でぐずぐずしているわけには いかない。すぐに「湖畔の宿」に向かって急いだ。これが本当なら、もう死ななくてすむんだ。今まで胸につかえていた重苦しいものが一遍に消し飛んで、浮き立つような気持ち で茶畑の中の小道を走った。

 兵舎に帰ってみると、皆も興奮して今後のことについて議論を交わしている。やはり戦 争は終わったのだ。だが、戦争に負けたとは思いたくなかった。同僚の話では、一度《総員集合》が伝達されたが、搭乗員は兵舎でラジオを聞けと指示され、総員集合には参加しなかったらしい。ならば私の不参加は当を得たものであった。

 当夜予定されていた夜間飛行訓練は中止された。その夜は久し振りに酒盛りとなった。 取って置きの酒や缶詰などを持ち寄っての無礼講である。戦争に負けた悔しさと、死から 解放された嬉しさが同居した妙な雰囲気であった。

 翌日から、先行き不透明で不安定な生活が始まった。目的を失いぼう然自失している時、 厚木航空隊から「銀河」が飛来して、《徹底抗戦》を訴える檄文を撒いて行った。これに 呼応する意見も出たが、賛同者は少なかった。

             陸海軍健在ナリ      

     満ヲ持シテ醜敵ヲ待ツ 軍ヲ信頼シ我ニ続ケ
     今起タザレバ 何時ノ日栄エン      
     死ヲ以テ 生ヲ求メヨ      
     敗惨国ノ惨サハ 牛馬ノ生活ニ似タリ      
     男子ハ奴隷 女子ハ悉ク娼婦タリ 之ヲ知レ      
     神洲不滅 最後ノ決戦アルノミ
                       厚木海軍航空隊


この文章は、筆者のご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「蒼空の果てに」
http://www.warbirds.jp/senri/



               無条件降伏の日 

                         上田博章
                          (当時:国民学校6年生)

 紙がなくなって絵日記が書けなくなってからひと月が過ぎた八月十五日、私は敗戦の日を豊野で迎えた。あの日は朝からカラリと晴れて、夏の青空がまぶしかった。

 戦時中の少国民は、夏休み中でもノルマがある。私と松波君に与えられた任務は、となり村にある戦没者の墓を掃除することだった。お盆ならではの勤労奉仕である。

 夏休みの前、となりの鳥居村のプールへ密かに泳ぎの稽古に行ったときは、コソコソとあぜ道を抜けて行ったものだが、今回は「お国のための勤労奉仕」だから、大手を振って堂々と街道筋を通ることができる。

 「八月十五日の正午に天皇陛下の重大放送がある」ということぐらいは、六年生だからちゃんと心得ていた。

 戦時中の私たちは、「天皇陛下は現人神(あらひとがみ)である」と教えられていた。早い話が「生き神様」ということだ。しかし、私たちは神様の声なんか、今まで一度だって聞いたことがない。

 「神様はどんな声だろうな。神主さんのノリトみたいな放送かな」

 二人とも無邪気な会話を交わしながら、朝から箒を担いで鳥居村に急いだ。まさか日本が降参するとは思ってもみなかったから、とにかくお墓の掃除は涼しいうちに済ませて、そのあとゆっくりと神様の声でも聞こうという算段だった。

 戦死者の墓は遠くから見てもすぐ分かる。墓石が新しい上、先端が尖っていて水晶の原石のような形をしているからだ。そういう墓を選んで片っ端から掃除をしてまわるのだが、お盆だったから、すでに掃除を済ませた墓もけっこうあって、ちょいと水をかける程度の気楽な勤労奉仕だった。

 墓掃除の帰り、道路わきの民家から「神様の重大放送」が聞こえてきた。天皇の声がカン高いということはすぐに判ったのだが、何を言っているのだか内容がさっぱり解からない。 

 「何だか知らないけど、いろいろ大変らしいなあ」

 呑気なことを言いながら、町外れにあるミズの家の前まで来ると、店のガラス越しにミズの姿が見える。店のガラス戸を開けて驚いた。ミズが泣いている。

 「ミズ、いったいどうしたんだ」

 「バカヤロー、おメエたち何を言ってんだ。日本は戦争に負けちまったんだぞォ」

 これには愕然とした。まず頭に浮かんだのが、「お父さんは死刑になる」ということだった。

 陸軍少将という父の立場は、敵側から見れば、報復の対象となって何の不思議もない。と、当時は大真面目でそう考えた。ショックが大きかったせいか、そのときの松波君が、どんな顔でどんな反応をしたのか、まったく記憶がない。忘れたのではなく、観察する余裕がなかったのだろう。

 家に帰ってから、「敗戦」が本当かどうか母に訊ねた。言葉すくなに事実を説明してくれた母は、思ったより冷静だった。むしろ、敗戦の報に、泣いて口惜しがっていたミズが不思議に思えたほどだ。

 仕方がない。父親とはほとんど一緒に暮らしたことがないのだから、この際あきらめるとするか……。

 父と一緒に暮らした期間が少なかったからだろうか、それとも、母が顔色ひとつ変えずシレっとしていたのを見て、私も開き直ってしまったのだろうか。

 「お父さんが死刑になろうが牢屋に入れられようが、まあ、何とかなるのではないか」

 私はそんな風に思うことにした。

(疎開先の学校で学年のボスだったミズは正義感が強く、弱いものイジメをしなかったので疎開モンの私は大いに助かったのだが、戦後ヤクザの親分になり、無理がたたって若死にした)

 以上、拙著 『疎開絵日記…学童疎開ドサ回り』(文芸社)→2003年2月初版の中から、「無条件降伏の日(P243〜P245)」の抜粋

「疎開絵日記 学童疎開ドサ回り」
http://homepage3.nifty.com/wedd/




            セミ捕りから帰って 

                         村野井 徹夫
                            (当時:5歳)

 私は1940年7月生まれ、終戦当日は満5歳で盛岡に住んでいました。この日の記憶があるのは同じ年齢の者でも少ないのかも知れません。この日は近所の子たちで小学校にセミ捕りに出かけていました。5歳の私に捕まえられるセミなどいませんが、捕虫網を繋ぐための物干し竿を担ぐ役目でした。

 帰り道、ジリジリ太陽が照り付ける昼近く、年上の子が人通りのないのを不思議がりました。家に帰ると母や叔母・祖母たちがラジオの前で泣いていました。「日本、負けたんだって」と言った母の言葉を覚えています。天皇の放送は一度だけだったのかどうか知りませんが、「ヘンな声」と思いました。

「季節の草花・樹木&エッセイ」
http://muraichiban.hp.infoseek.co.jp/



           壱岐での終戦の思い出

                          齋藤茂夫

                            (当時:中学校2年生)

 昭和20年8月終戦時、私は長崎県立壱岐中学校2年生であった。昭和20年3月、戦時勅令により、中学校の授業は1年間停止となり、私達中学生も学徒勤労動員され、鍬を執り槌を握った。私達は未だ年少だったので、主たる動員先は自宅から通える壱岐島内で、地元石田村の溜池堤防工事、志原村・岳ノ辻でのトーチカ構築用砂利石運搬、初山村当田海岸からのトーチカ構築用の砂利石運搬、石田村筒城浜の船舶飛行第2中隊のオートジャイロ基地建設工事、そして圧巻は、渡良村大島の壱岐要塞重砲兵連隊(連隊長・関大佐・陸士29期)の砲台構築工事に動員されたことだった。当時、壱岐島全体が第56軍隷下・壱岐要塞司令部の管轄下で、壱岐要塞司令官は千知波幸治少将(陸士29期・陸大38期)。千知波将軍は、かの有名な田中隆吉少将と同期である。

 その頃戦局は益々悪化、私達が中学2年生に進級する少し前の昭和20年3月、硫黄島では栗林忠通中将以下陸海軍全部隊が、圧倒的物量に勝るアメリカ海兵隊と激闘の末、敵に多大の損害を与えつつも全員玉砕した。更に6月、沖縄が占領され、8月には非道にも広島・長崎に原爆投下、更に条約違反のソ連軍が満州・朝鮮・樺太侵入と続き、遂に日本国中で1億総特攻止むなしと叫ばれていた。

 当然、全国津津浦浦は超非常時で、私達が住んでいた壱岐・池田の住民は、老人と女そして私達年少の子供だけである。働ける男は年配者も含め、全て国民義勇戦闘隊に編入され、壱岐要塞重砲兵連隊隷下として、壱岐島内の何処かで何等かの軍務に服していた。勿論、健康な青壮年男子は、本土防衛軍に根こそぎ動員され、南方・支那・満州などの外地を始め、壱岐島外で本土決戦任務に就いていた。

 その様な異常に緊迫した状況の中、昭和20年8月13日、8月14日と、不思議千万にも2日間も続けて、あれ程執拗に壱岐上空に侵入して、爆撃や機銃掃射を繰り返していた敵艦載機が襲来しなった。8月13日と14日は何故か2日とも、私達中学生に対して学徒勤労動員の命令は下されなかった。私達中学生は極度の情報不足のため、敵機が襲来しないのは、我が軍が盛り返して来たのかと思った。そして8月15日の朝になると、役場から「本日正午より重大放送があるので、是非拝聴すべし」との布令が下った。その時も全く情報がなく、重大放送はいよいよ本土決戦の大号令が下るものと思っていた。

 8月15日は日曜日で、朝から晴天だった。当時、私達部落の各家庭にはラジオはなかった。そこで正午前、部落で唯一ラジオを所有する辻元太郎氏の家に集まった。そして正午ラジオから流れ出る重大放送を聞いた。ラジオの重大放送は玉音放送ということだったが、ザーザーとひどい雑音混じりで、私には放送内容を理解することは出来なかった。しかしインテリーの辻氏は、玉音放送の内容を直ぐ理解され、悲痛な声で「日本は戦争に負けた」と大声で叫ばれた。

 絶対勝利を信じて戦ってきた私達住民は、「日本は戦争に負けた」と聞いても、直ちに事の重大さの判断が出来ない。暫くしてやっと戦争に負けたという現実を理解することが出来た。住民全員が顔面蒼白となり、或る者は憤り、或る者は号泣する。特に私自身は、長兄の齋藤行雄少尉(特別操縦見習士官第1期)が、陸軍八紘特別攻撃隊・第7隊・丹心隊(隊長石田国夫中尉・陸士56期)の一員として、昭和19年12月17日、フイリッピン・ミンドロ島付近で、アメリカ魚雷艇に特攻攻撃突入戦死しているので、将に失神状態に陥らんとした。長兄は祖国日本の安泰を希い、必勝を信じて南瞑に沈んだのである。其れなのに戦争に負けるとは何たることか。泣くにも泣けず、自暴自棄気味になり無性に腹が立った。集まった人々は絶望と恐怖に突き落とされ、今後自らの運命を全く予測することが出来ない。やがて時間の経過とともに、放心状態から開放され我に返り、何の希望もなく不安のうちに各自帰宅した。

 翌日8月16日の朝、警防団から「本日、鬼畜アメリカ兵が壱岐島北部方面に上陸する。鬼畜アメリカ兵が上陸したら、男は耳や鼻をそがれて虐殺され、女は凌辱された上に売り飛ばされる。直ちに近所の山奥深く逃げ込め」との命令があった。私達住民はパニック状態に陥った。直ちに大切に飼育している農耕用牛を、裏山の奥深い場所に隠したり、重たい食料用の4斗入り米俵を、女一人で急坂の裏山に何回も担ぎ揚げて、深い繁みに隠した。そして取り敢えず僅かの食料を持参して、近所の山の一番奥に逃げ込んだ。多くの近在住民が逃げ込んだ。若い娘さん達は、恐怖の余りオイオイとすすり泣いている。全員が来るべき自分の運命に怖れ戦いていた。

 やがて逃げ込んで2〜3時間位経過して、私達は幾らか落ち着きを取り戻した。取るものも取り敢えず逃げ込んだが、どうも何の変化も起こらない。住民の誰かが恐る恐る、町の周辺に情報の収集に出掛けた。しかし町は通常と変わりなく色々聞いてみると、アメリカ兵の上陸は全くデマであることが解った。逃げ込んだ私達住民は、デマと解り一応安堵した。しかし今後の恐怖と失望は払拭出来ず、不安の中にそれぞれ帰宅した。アメリカ兵が占領のため、実際に壱岐に進駐したのは、ずっと後の昭和21年に入ってからであった。

 戦時中はスパイ防止のため、極度に情報管制を行っていた。軽度のスパイ行為も極刑に処せられた。このような情報皆無の異常な状態の中でのデマは、直ちにパニックを惹起せしめる。古くは関東大震災での朝鮮人虐殺事件、最近ではオイルショック時の、トイレットペーパー買い占め事件等の例があり、大変恐ろしいことである。 これらの反省から、行政当局は常時、的確な情報を開示しなければ成らない。又、私達住民も常日頃から、万が一起こり得る有事に対応すべき心構えと訓練、そして有事への的確な判断と沈着な対応が求められるのである。以上が、私の昭和20年8月15日から16日にかけての、辛くもほろ苦い思い出である。

「関西壱岐の会」
http://ikikansai.hp.infoseek.co.jp/



           ポツダム宣言受諾だと?

                          島内義行
                                (当時:中学校3年生)

 8月15日、水曜日、晴。午前7時のラジオの報道が、陛下御自ら詔書をお読みになるので、かならず聞くように、と繰り返していた。

 この日は、学校から2キロほど離れた所にある校有林で、開墾作業をしたが、11時に作業をやめて学校へ戻った。私は自転車だったので、農具を置きに帰宅し、ついでに手や顔を洗った。体を清めて玉音(天皇の声)放送を聞こう、と考えたからである。

 11時27分ごろ学校に着き、校有林から徒歩で帰ってきた連中とともに講堂へ。講堂の正面には白布を掛けた机があり、その上に拡声機が載っていた。6月中旬から校内に駐屯している兵隊約50人と、学校工場の工員3人も参列。粛然たる雰囲気の中で正午になった。一同起立。

「ただいまより、重大なる放送があります」
 という放送員(アナウンサーのこと)の声に続き、
「これより謹みて玉音をお送り申します」
 という老人の声。「君が代」が流れ、一同、拡声機に向かって最敬礼。そのあと、いわゆる玉音放送が始まる。日記にはこう書いてある。

 −−−−このときほど、有難く君が代を聴いたことはなかった。身の引き締まるような緊張の中、玉の御声が流れだした。意味は自分等にはよくわからぬが、ただ有難く拝聴する。−−−−

 玉音放送が終ると、また君が代。そして、拡声機に向かって最敬礼。一同着席。放送員の経過説明に耳を傾ける。

 歴史的御前会議の席上、陛下の大御心に、大臣等は御前をも憚らず慟哭した、というくだりでは胸が熱くなった。そして、大御心に答えまつるためにも、われわれ学徒は必勝の信念に燃えて、難局にあたらなければ、と決意を固めたのであるが・・・。

 放送員が、ポツダム宣言受諾、と言っていることに気付いた。ポツダム宣言は、日本に無条件降伏を要求している。詔書の中に、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、とあったのは、このことをさしていたのか。

 降伏したことを知ったあとの気持ちを、日記によって見てみよう。

 −−−−天皇陛下、国体、言語、宗教等を守るという申し入れは受諾されたのであるから、無条件降伏ではないにせよ、降伏であることには変りはない。南方諸地域は取られ、満州、台湾は取られ、全将兵は武装解除だ。大陸に、南方に、我が将兵の流した貴い血は肥料になってしまうのか。我が国の栄えある歴史は、そして東亜の平和はどうなるのだ。憤激に燃える目で周囲を見回すと、午前中の疲れが出たのか居眠りをしている。馬鹿、馬鹿、日本は負けたのだ。三千年の歴史を瑕つけられたのだ。眠っているとは何ごとだ!つい先ほどまで開墾をしていたのは、なんのためか。学業を投げうってまで戦闘機の増産に励んだのは、なんのためだったのか。口惜しい。降伏の汚名を受けるより、日本国民が全滅したほうがよいではないか。−−−−−

この文章は、筆者のご子息のご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「戦争体験 〜 『むんつん閑話』」
http://home.att.ne.jp/banana/kuroshio-sha/kuroshio_pages/war_experience.html



          負けた悔しさで胸いっぱい

                            児島 広
                   (当時:海軍第23特別根拠地隊中尉)

 赤道直下のマカッサルの第23特根司令部に士官全員が集められ司令官から詔勅および第2南遣からの命令が伝達されました。途中から嗚咽の声で包まれ、司令官の声もとぎれがちでした。今までのたいへんな努力が無駄になり負けた悔しさの思いで胸がいっぱいでした。おなじ予備学生出身のもの6名で、この上はインドネシヤの独立の手伝いをしようと無理に兵器庫を開けさせ、オランダからのろかく兵器をとりだして準備中、先任参謀の一喝にあい中止、このときの兵器は兵補出身の独立軍の士官に渡しました。

 水際防禦のため訓練中の中隊にかえり、現地で召集された私よりずっと年上の部下の方々に戦争終結のことを説明しましたが、台湾の高砂族出身の二人が強硬に戦闘継続を主張し説得に苦労しました。

 五日ほどたって炎天下の道を歩いていて、これで戦争は終わったんだ、ひょつとすると生きて日本に帰れるかもと気がついて、おこりが落ちたようにいのちが惜しくなり喜びがこみ上げてきました。この瞬間が私と皇国史観との別れだったと思います。

 しかしそのときの我が国の保有艦船と燃料では南方からの引き上げが終わるのは何年先になるか計画もたたぬとのこと、しかも日本近海のたくさんの小さい離島では多数の兵士が餓死しつつあり、17日には駆逐艦に食料を積んで急行したとの電文をよんで暗澹としたことを覚えております。



            みんな我に返り泣いた
                            
                                片岡 隆
                           (当時:中学校3年生)

昭和20年8月15日、私の生涯の中でこれほどショッキングな出来事は無かった。その日のことが58年とゆう永い年数にも拘わらず鮮明に思い出されます。

当時旧制中学3年の私達は学徒動員で四日市市の第2海軍燃料廠( 現昭和四日市石油)で、後で分ったことですが、人間魚雷の燃料部品として使用されるラッシリングとゆう陶器製の小さなリングを洗浄する作業をしていましたが、戦況が厳しく不利になり、連日のように空襲警報が発せられ艦載機の攻撃を受けました。燃料も空になったタンクめがけて機銃掃射を受けタンクがまるで蜂の巣のように穴だらけになっていました。また爆撃で多数の学徒逓身隊の男女が廠内の防空壕で直撃弾の犠牲になりました。

さらに戦況が著しく不利になり、サイパン、グヮム等の前線基地より玉砕のニュ-スが伝えられる中、近くの泊山の中に工場疎開がなされ私達も山の中で資材整理の作業をしていました。

いまでもはっきり覚えているその日それが終戦の日8月15日です。当日12時より玉音放送( 天皇陛下のお言葉 )があるとのことで全員が事務所本部の前に集合命令が出ました。

その後の状況は言葉では言い尽くせませんが、頭の中が真っ白になり、終戦が信じられませんでした。そしてみんなが我に返り泣きました。

戦前、戦中、戦後とめまぐるしく動いた激変の節目に生きてきた私達でしか経験の無い歴史の一幕を永遠に伝えて平和が如何に尊いものかを訴えたい。



               故郷、疎開先で
                               
                                山本芳雄 
                                (当時:6歳

私の昭和20年8月15日は、満六歳を迎えた学童前に故郷、母の実家愛知へ疎開していました。

疎開期間は3月から10月迄約七ヶ月間で、当時20年の3/10は空襲下世田谷の実家にいて、周辺の家並みはまだ高い建物がないせいか、下町、深川方面の夜空は真っ赤に燃え上がる空襲を知りびっくりして、急遽東海道線の列車切符を隣近所から譲り受け、東京駅廻りは混乱との情報で小田急線廻りの小田原から愛知の豊橋まで混乱の中に一日がかりで避難しました。

疎開中の8/7には、豊川海軍工廠の爆撃が起って驚き、隣近所にも女子工員として駆り出されて災難に在ったとの話を親から聞かされました。

「私の極める道」
http://yama1481.hp.infoseek.co.jp/




        わけもわからず聞いた玉音放送

                                 酒巻伊助
                      (当時:陸軍少年通信兵学校)

陸軍少年通信兵学校2年目の夏でした。今の中学2年生に当たる年齢でした。まともな食事はほとんどありません。高粱が主食。塩を薄めたような汁。

汚い話ですが 1年中下痢。風呂は 自分たちで 燃えるものを拾い集め ある程度集まると 風呂が沸かせる。 ところが 50人も入れる風呂にちょろっとした それもやっと燃える木。20度がやっとのぬるま湯なので お湯の出口に向かって 順番に進みやっと暖かいところにたどりついたとおもったら あがらなければならない。

育ち盛りの少年の体は 申し合わせたように ガリガリ。午前は通信関係の学習。午後は 軍事訓練 行軍 よく生きていられたなあ  と 今になっては不思議な気がします。20年になると 空襲 夜中 警報が鳴ると競争で防空壕に飛び込む。クラマン戦闘機からの 射撃もありました。焼夷弾がシュルシュルと音を立てて落ちてくる ただ首をすくめるだけ。暑くなったころ記憶に残っているのは どこか山間の小学校の二階に寝泊りし のみの集団と戦い 昼は小高い山に 地下壕堀。

そんな時、昼間どこかに集められました。わけもわからず みんな呆然と立っていると 玉音放送だという。ラジオとは名ばかりの機械から聞こえるのは ただ音がしているなぐらいで わけもわからず聞いていたのを思い出します。

教官の説明で終戦だ そのときは何を思っていたか。自分自身にも思い出せません。15のそんな夏でした。当時の同室の友は今どうしているか。70歳は過ぎているはずです。今はどう連絡してよいやら、そのすべもありません。 



              シベリヤ抑留の序章

                            平野嘉男
                  (当時:満州・輜重兵幹部候補生教育隊)

 大陸へとの言葉に誘われて、旧制中学を繰り上げ卒業さされ、現在の韓国京城の油脂会社に就職した。そして、昭和19年10月これも繰り上げで、朝鮮第230部隊(自動車輜重隊)へ現役入営した。19歳1ヶ月だった。

 20年4月幹部候補生に合格、5月甲種幹部候補生に合格、7月現中国東南部当時満州国牡丹江の輜重兵幹部候補生教育隊へ転属、階級軍曹。

 輜重兵幹部教育隊は九州久留米にあったが、終戦直前で、敗戦濃厚のため、牡丹江になったと聞く。これが歯車の食い違いの一歩である。

 昭和20年8月9日未明不可侵条約を破棄し、ソ連軍が満州に侵攻してくる。関東軍は南方へ転進して、満州はもぬけの殻、ソ連軍は蹂躙して、怒涛の侵攻。

 非常呼集のラッパにたたき起こされ、戦闘準備、遺書を書き、部隊の重要書類を焼却して、作戦行動をと言ってもソ連の侵攻が早く、温春の山をくり貫いた弾薬庫から一回弾薬を運んだだけ、次には、火を放って弾薬庫を自爆さす、いんいんと火薬、砲弾の爆発音が車を追って聞こえた。さながら日本軍終焉の花火と言ったところである。

 寝る間もなく、走りまわったが、運命の日が来た。

 8月15日(この時私19歳11ヶ月)、重大発表があると、朝から、牡丹江南部の鏡白湖畔に車両を止めて、ソ連参戦からの慌しかった一週間のことを語り合っていた。3時半頃「戦争が終わった」との命令伝達があった。皆醒めた目で冷静に聞くことができた。

 トンキン城で武装解除とのことで、重い腰をあげて現地へ向かう。途中南下する日本人の列が続く、この中にも残留孤児がいたのかも知れない。22日武装解除され、その後何の指示も無く、食っては(ここまでは、手持ちの食料も豊富だった)眠るだけ、ソ連兵も数が少なく、時々マンドリンと称する、自動小銃を小脇に抱えて、見回るだけ。

 2〜3日経つて落ち着くと、ソ連兵が若い女を空き家に連れ込み、強姦輪姦の毎日となる、娘たちは、丸坊主になり、顔に泥を塗って、ズボンをはき男姿になるが、無駄だった。

 戦場では、勝者は非人間的であり、女性は、常に最大の犠牲者である。9月初めエキカの旧414部隊の兵舎へ収容される。ここで帰国を待つこととなる。

 しかし、列車は中々来ない、其のはづである、満州にある企業会社の大小さまざまな機械設備を取り外して、貨車に積み込み持ち帰っている。火事場泥棒そのものである。

 20年10月16日ソ連兵にダモイ(帰国)だと、急造の二段装置の貨車に乗せられる。カタコトカタコトと単調な車輪の響きも楽しくきいて、故郷を思い出したのもつかの間、国境を超えウラジオヘ向かっていると思っていたら、ある朝貨車は、止まることも忘れたように、北に向かって走っている。

 太陽が、後ろになった帰国なんて無いぞ、と誰かが叫ぶ。これがシベリヤ抑留の第一章であった。

 戦争、これほど無駄なものはない、これほど残酷なものも無い、近頃戦争のきな臭いにおいを感ずるようだ、私だけの気の迷いであれば幸いだが。 8月15日いつも思う、アメリカナイズされて茶髪だ、臍だしだと、浮かれている人々よ、今こそ戦争の無い世界を作ることに全力を注ごうではないか。 
               



            ジャワで迎えた敗戦

                             大庭定男
                (当時:バンドン市、旅団司令部陸軍主計将校

 敗戦はジャワ・バンドン市の旅団司令部で迎えた。戦況の推移は判っていたので何らかの方法で講和になるものと思っていただけに敗戦の知らせはショックであった。鉛を頭の中に詰め込まれたような感じで数日を過ごした。そのときの気持ちは、

(1)一戦も交えることなく敗戦、降伏となったことに対し、天皇、国民、インドネシア人に対する自責の念

(2)戦死した戦友、特に特攻隊で散華した学友に対するうしろめたさ

(3)将来への不安、将校は全部断種、ニューギニア送りの噂があった

(4)再びオランダの植民地として呻吟することになると思われるインドネシア人、特に兵補、義勇軍など対日協力した人々への同情

 思考混乱する中に『内地に生きて帰れるかもしれない』とのほのかな願望が芽生えた。これが実現するまでには、さらに約2年間の苦難の日々を送らなければならなかった。上記の後ろめたさは現在でも持ち続けている。

「修養日誌」
http://www.infotera.ne.jp/~mydna/sonota.html



               戦争はいやだ

                              林 幸三

                             (当時:実業学校)

私は学徒動員で、住友金属和歌山工場の旋盤工をしていた。たまたま工場側からの勧めで国内派遣を命じられていた。
         
思えば七月九日夜、大阪府寝屋川の国立大阪機械技術員養成所生徒寮の二階寝台上に熟睡中の私は、友人に叩き起こされた。南側の窓越しに南側が真っ赤に燃えていた。

翌日、帰宅した私の目のまえの自宅は宅地一面瓦礫で埋められ煙が漂っていた。水道の水がちょろちょろとでていた。町内を八方さがして、父のいる近所の寺をみつけた。父は寺の板縁を借りて寝ていた。私は,長蛇の列に並んで一日一個の梅干入り握り飯を数個食べた。

やがて、1人二人と寺を出ていくなかで、我が家も、父の出身地の廃寺で数日滞在。みかん小屋を我が家と定めたのは八月半ばであった。

天皇陛下がなにか話したのはラジオで聞いた。父は「戦争に負けた」。と言って肩を落とした。

父竹三は明治三十四年生まれであった。農村の三反百姓の三男として口減らしのめ、陸軍歩兵第六十一連隊に下士官として志願した。それから偽満州(現在の東北三省)、華北、華南と交戦の度に出征した。最後は昭和十三年六月から十二月二十四日まで広州東北の激戦に参加。マラリアにかかり野戦病院に入院し、台北、高雄、広島、白浜と陸軍病院を転院した。その後は、和歌山日赤病院に在籍のまま自宅療養した。そして十二月二十八日自宅で戦病死した。

父の兄は高等師範学校出身で兵役が免除されていた。父の場合、神戸市栄町通りで開業の貿易商、長田での長靴工場経営と仕事が軌道に乗ると兵役に呼び戻された。おかげで私は神戸市入江小学校から神戸市六甲小学校へ六回も転校を余儀なくされた。父方の従兄弟達は生まれてから卒業まで同じ学校区で通していた。私の場合は、この戦争で、両親死去、学習環境破壊、人間関係希薄と私のライフサイクルに多大の影響を及ぼした。

戦争の影響で世界の児童生徒が被る被害は計り知れないものがある。

戦争はいやだ。戦争には反対だ。




             特攻隊員たち

                             朱矢義彦
                                (当時:2歳)

昭和38年整備工場に就職しその時 兄弟子の体験談を書きます。一般の方と 違った所見ですので、誤解のないようにお願いします。何分にも 日時時間が定かでありませんので?

兄弟子の名前は清水淳一です(故人)。昭和18年頃 陸軍少年整備兵として千葉県木更津航空隊に配属 航空機の整備に従事。以前はヤナセ自動車で自動車の整備しておりましたが 時節柄 航空整備の人数が不足していたので 採用された。弱冠16歳です。

尚 一般人には理解しにくいがヤナセの仲間では、この戦争はアメリカ相手では確実に負けるのが当たり前の認識。整備工の18歳先輩が仕事の帰り 大阪駅ホームで3回演説した。ポケットから スパナ(工具)2個だして、日本製とアメリカ製の比較し こんなにも 材料の劣っているのに勝てるわけない。車も外車ばかりで 国産車の少ない事 性能も劣る。敵さんのもので勝てないと 演説したら3日目に私服の3人組みに連れて行かれ 戦後何日も 探したが いくえ知れずででした。

清水氏も入隊し 連日整備あけくれた。班長は曹長でよく指導してくれたのですが パイロットが未熟でグラマンに撃墜され パラシュトで着地した。自分の親より年上の曹長を 殴り倒すは、日常ごと。たかだか20歳やそこらでタバコを吸い 酒をのみ 白いマフラー風にたびながし 偉そうに 当り散らしていた。

なにが特攻隊員と世間では 神風と敬拝しているので、手出しは無用にて自転車 自動車も運転出来ないのに 飛行機操縦するのに2年必要です。世間はあまりにも甘やかしたとおもいます。8/15午後持てるだけの食料持ち逃げ。下は国鉄の乗車証明書 毛布だけで終い。特攻隊員を崇拝しすぎです。時世の俳句も 雛形があり 写すだけ。大学も 俳句短歌教える時節柄でないのに?




            夕食も皆半分も食べられず

                         岩上晴雄

                         (当時:海軍中尉・海竜特攻隊員

 八月十五日に我々は大尉に進級する予定であったが、計らずもその日に終戦の詔勅が下った。 感慨無量だった。何とも名状し難い気持ちだ。今まで帝国海軍軍人としてこんな事を想像した事もない。人間は余りショックが大きすぎると、只呆然としてしまって感情が取り留めなく なってまるで無感覚状態と同様になってしまうものである。

 陛下の玉音によってお話になった「無条件降伏」と其の後で放送された「ポツダム宣言」 の条項中「軍人は武器を捨てて各々家に帰り、各人の生活を営む可し」との条項が交互に脳裏を去来した。 武人としての最大の恥辱である「無条件降伏」残念な重苦しい気持ちが一杯に心を覆った。其の蔭に「武器を捨てて各人の家に帰れ」 と云う平和への憧れ。計らずも再び生き延びる生命への喜びと希望が僅かに去来した。

 その日の士官室はひっそりとして話声一つしなかった。夕食も皆半分も食べた者はなかった。

 航空隊は厚木が中心となって「降伏絶対反対」「徹底抗戦」を叫びだした。我々の部隊へも横須賀在泊潜水艦が「徹底抗戦」を申し入れてきた。我々は之と歩調を合わせる事を決議したが、 如何せん潜水艦と違って艦内に長期間の糧食、清水、その他武器等を蓄えて置く事は、 何一つ出来ず、専ら基地の設備補充に頼らねばならぬ海龍に在っては、我々だけの力では何ともし難かった。 私は最初から無理だと思った。性能からしても現在の艇の整備状況からみても、 本当に戦争の役にたつ艇は殆ど無かった。

 国力の状態、その他の総合的な実状を知らなかった我々は、 これが蛟龍であったら、相当強行に「徹底抗戦」を叫んだ事と思う。

 そうした訳で中央からの「各基地の特攻隊は米軍が上陸を開始するまでの間の僅かな時期に半数復員を完了す可し。」との 命令が出て、八月三十一日には既に復員が開始され、他の如何なる部隊にも優先して復員させられた。

 終戦の騒ぎでお預けになっている大尉への進級は九月五日附を持って発表され、我々のクラスは全員大尉に進級した。私は九月二十五日に復員した。 
   

この文章は、故人の残された次の手記の一部を、ご子息のお許しを得て、転載させていただいたものです。

「父の手記 〜 海軍予備学生」
http://homepage2.nifty.com/rockshome/starthp/kaigun.html




           桜の木の下で終戦

                           中山善之

                              (当時:国民学校4年生

 昭和20年(1945年)8月15日、戦争が終わりました。その日は夏の暑い日でした。この日、兄と二人で隣の町の伊田(田川市東区)に模型飛行機の材料を買いに行っていました。目的の物を買って、三井炭鉱の松原社宅を過ぎ、大藪峠を下ってきて、大きな桜の木の下でひと休みしました。その時、丁度、12時のサイレンが鳴りました。

 その日は、政府から重大ニュースが発表されると知らされていました。桜の木のある家からラジオ放送が聞こえています。ラジオの放送を必死になって聞いていると、天皇陛下の発表がありました。意味は良く分かりませんでしたが、それが、終戦の発表だったのです。大騒ぎになりました。

 家に急いで帰り父に「日本は戦争に負けたんちよ。」と言うと、「誰がそんな事言いよるんか。」と怒られました。しかし、事実だったのです


この文章は、筆者のご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

糸田「国民学校物語」
http://www3.coara.or.jp/~primrose/k-school.html





         ラジオが壊れていて聞こえず

                           石渡友勝

                           (当時:陸軍士官学校練成隊)

当時わたしは、静岡県の島田国民学校にいました。重大放送があると云うことでみんなラジオの前に集まりました。玉音放送はラジオが壊れていて聞こえませんでしたが後で日本が負けたことが分りました。

その後士官学校の車10台に食料などを積んで、長野県の望月の中学校へ行きました。一週間くらいして上田の国民学校へ行き体育館で寝泊りしていました。作業は浅間山の弾薬を上田国民学校の校庭まで降ろすことです。一ヶ月くらいかかったと思います。

10月になり外泊が一回あり日暮里の駅に着いた時には吃驚しました。東京は全部焼け野原で品川の方まで見えました。自宅へ一泊してまた上田へ帰りました。千曲川で手榴弾を投げてさかなを取り、天プラを食べました。11月になってやっと家に帰れました




          動員先で迎えた8月15日

                           布施濤雄 

                             (当時:旧制高等学校1年生)

昭和19年の暮れ、特攻隊が飛び立ったことが新聞に載った日、父は飛行場の勤労奉仕に出かけたまま、心臓麻痺で倒れて亡くなった。そして入学試験を受けに水戸から上京したときは、高田馬場の周辺はまだ焼けてなかった。そして、3月の東京大空襲を始め、全国の都市は無差別爆撃と焼夷弾攻撃を受け、入学は7月に延期された。

中学3年と4年の2年間、勝田にあった日立兵器で飛行機搭載用の13ミリ機関砲を作っていた。勿論卒業式はなかったと思う。そして卒業・入学と言っても勤労動員先が変更されると言うことでしかなかった。7月1日に入学したが、校舎の大部分は焼けてしまっていた。授業があったかどうか覚えていない。

しかし8月15日に新しい動員先の大日本兵器半田工場に集合と言うことになった。そこで14日の夜行で東京を発つことにしたら、友人の一人から「戦争は終わったから行ってもしようがないよ」と言われた。しかし私は「デマだ」と全く取り合わなかった。

列車が小田原の近くに来たとき、前方の空が真っ赤な炎で包まれていた。空襲である。不謹慎だがきれいだ、と思った。逃げまどう人も見えない火災は、花火よりもきれいで、豪勢であった。実は空襲を経験するのはこれが初めてであった。

東京が空襲を受けていたときは水戸にいた。水戸が艦砲射撃と空襲を受けたときは、入学して焼け野が原の東京にいた。と言うわけでこれが始めてで最後の空襲体験になったのである。身の危険を感じることなく、列車の座席からの高見の見物であったが。

そして火勢が静まるのを待って、列車は動きだし、翌朝早く愛知県半田に到着した。空襲が激しいので、工場は地下にあった。そして12時に天皇の玉音放送があるので集合との連絡、恐らく「みんなで力を合わせて難局に当たろう」、と天皇が直接語りかけるのだと思っていた。

しかしどうも様子がおかしい。戦争に負けたようだという。電波の状態は悪いし、受信機はぼろだし、天皇は話になれていないので、変な日本語だし、しかもその文章たるや、今でも読んだってなかなか分からない代物である。勿論この戦い、勝つとは思わなかったが、負けることは考えてもいなかった。

時間がたつ中で、敗戦は確定的となり、頭の中は真っ白となった。幸い近くにプールがあったので、頭を冷やすために飛び込んだ。機銃掃射の心配もなく、空は青く平和が戻ってきたのだ。

今でも悔やまれることが一つある。中学の時の軍国主義をたたき込んだ先生と、戦後高校で平和と民主主義を説いた先生は、8月15日を挟んで学校が変わってしまったので別であった。同じ学校にいたら、変わり身の早さに、先生に対する徹底的な不信が、感受性の強い青年に芽生えたことだろう。

高校の先生の戦争中の言動を私は全く知る由もなかった。と言うことで、私には教師に対する徹底的な不信に陥ることがなかった。私はそれは大変不幸なことであったと思う。と言うのは、裏切られたという体験とか、ニヒリズムに陥ると言うことは、もう少し私の内面を豊かにしてくれたのではないかと思うからである。




             へぇー そんなものか

                            指方英佑
                              (当時:国民学校4年生

国民学校6年の頃、長野市の吉田(現北長野)の伯父のところに父母兄弟とは離れて縁故疎開していた。

夏の盛りも過ぎ旧盆に入ったがまだ日中は暑かった。この日重大な放送があるので国民はその放送を聴くようにとのお達しがあった。その放送を中部配電の社宅の片隅で何人かで集まって聴いた記憶がある。生まれて初めて聞く「現人神」と云われていた天皇の玉音放送だという。お昼ごろだったと記憶しているが、ラジオから今まで聴いたことのない調子で妙に甲高く、抑揚が不自然な演説が聞えてきた。これが昭和天皇の声だったのである。

ラジオの雑音がひどく、非常に持って回った言い方だったので、小学生の私には彼が何を云っているのかよく分からなかったが戦争に負けたことは理解できた。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び‥」というのは耳に残っている。

特に感慨は浮かんでこなかった。「へぇー そんなものか‥」と思った程度である。特に、悲しさもなく、しかしうれしくもなかった。この直後、宮城前の広場で割腹自殺した人が何人か現れたと報道されたが子供心にも納得できなかった。

数日を経ずして、鬼のような米兵が進駐し、下手をすると日本人は皆殺しにされるなどというデマがこの田舎町にも飛び交ったのは事実である。日本は歴史が始まって以来、外国との戦争に負けたことはなく、したがって決して降参することはないと云われつづけてきたが、結局、神風も吹かず奇跡も起きなかった。

日本は負けるべくして負けたのであり至極当然の成り行きであった。もともと無謀な戦争であったのだ。戦争により未曾有の惨禍を受け、多くの尊い人命を犠牲にして初めて分かったことだ。

「思い出話、終戦前後の出来事」から一部を抜粋
http://www.toshima.ne.jp/~esashi/




         負けたなどとは思いもしなかった
                        
                            福井厚子

                             (当時:高等女学校2年生

旧制高等女学校2年生でした。玉音放送があるからと正午に職員室前の廊下に在校生の1・2年生が集められました。お国の為と挺身隊の名のもと、当時は3・4・5年生と、専攻科1・2年生(卒業生)が学徒動員中で工廠(軍需工場)に行き、殆ど登校していません。

1年生は食糧増産のため運動場の開墾と防空壕掘りに明け暮れ2年生は学校工場で学徒動員です。昼食には飯盒に米粒が多いか菜っ葉が多いかわからない弁当が軍部より支給されました。食べたい盛り、それでもおいしく食べました。授業は週1日だったと覚えています。

学校を守るのは1・2年生の役目と休日・夜間には空襲警報のサイレンで当番は登校しました。無事に復員した父も防衛召集、警防団とかで警報のサイレンと共に家には居ません。母と幼子だけで幾度となく防空壕に入りました。夜は灯火管制で殆ど暗闇、空襲警報のサイレンも又かと思うようになっていました。でも負けるなんて全く考えていません。「撃ちてし止まん」「一億一心」「一億総動員」です。

当日、玉音放送はラジオからスピーカを通じて初めて聞く天皇のトーンの高いお声が聞こえましたが周囲はシーンとしているのに内容はよく分かりません。終わり頃にはそれでも停戦と理解し戦争に負けたなどとは思いもしませんでした。

最初に今晩から電灯がつけられる、黒いカバーはもうしなくてよいと思いました。家に帰り父が裏庭で兵隊と分かる軍人手帳、奉公袋等を焼いているのを見て段々と様子が分かって来ました。でも世の中一変、それから続いた厳しい時代までは想像できませんでした。




       製作中の特攻機の翼の下で終戦放送を聞いた
          
                            金子ひろし

                               (当時:徴用工、18歳

私世代別では、戦中派です。(太平洋戦争中)8月15日終戦記念日?本当は敗戦記念日なんだけど。あの日は中島飛行機製作所(現富士重工自動車工場)で飛行機を作っていました。

3月のB29爆撃機の大編隊空爆で本工場は全滅したので、山と山の谷底のようなところのバラック工場で、特攻専用機を作っていました。   

ボツダム宣言受諾(降伏)の録音放送を作りかけの特攻機の側で聞きました。ヤルタ会談の「ボツダム宣言を受諾」と話されたが、この宣言文は新聞で読んでいたから、負けた、無条件降伏とわかったけれど、知らなかった人もいて、意味が判らずキョトンとしていた人も居りました。

その後に及んで”負けた”と直接的に云えなかったようです。日本がアメリカを中核とする連合軍に占領される! 未知の世の中が始まる! 旧日本軍が中国などでの横暴な行為の話は当時の復員軍人から直接具体的に聞いて居ましたから、今度は日本が占領軍から受けるのか! パソコン時代が来てこのホームページなど想像もしませんでした。

昭和20年8月15日! 毎年この日には50何年前にタイムスリップしてしまいます。忘れられない、忘れてはいけないことがあります。特別攻撃機に乗って、若くして逝った方々の事です。

今の平和はこのような若人たちによって築かれたものでした、大事にしたいものです。特攻機を作っていたものとしては、搭乗された方々の心情を想ってしまいます。

何しろ離陸したら着陸出来ないのですから。空中に機体が浮いたら直ちに車輪のフックレバーを引いて、車輪を捨てなければならないのです。後は自爆するか突っ込むしかないのです。

このような機に乗る人の気持ちは想像できません、私は操縦席に座って作業したのですが、計器類は燃料計、油圧系、羅針盤、回転計、時計、飛ぶための最低限の計器と敵目標に自分の機を誘導するための望遠鏡のような十字の見える、照準機が目前にあるだけでした。

胴体下は魚雷が収まりよいように、半円形にくぼんでいるところに、大きな魚雷を抱いて、敵の迎撃機から自分を守る機銃も無しで打ち落とされれば、そのまま落ちるだけです。

その頃は航空機用材料は不足して、ジュラルミン材が無いため外板のみジュラを使って薄い鉄材と、木材で(座席など)出来ていました。エンジンだけは異常に大きなものだったようでした、重い魚雷を(魚雷では無くて500キロ爆弾だった)抱いて失速しないような速度を得るためかな?と思っていました。双発爆撃機“呑竜“のエンジンと聞いていました。

書けばきりが無くいろいろアタマに浮かんできますが、不思議な事に、戦後このような特攻機が飛んだ話、このような特攻専用機があったと云う話を、聞いたことも無いのです。各種文献なども見たことも無いのです、友人などにこの話をしても信じてもらえないのです。不思議に思ってます、間違いなく私が製作していたのですから。

後日談です。

上記までの記述は03年11月の新頁{『戦時中世代は語る』ひろしのページ}開設時のものですが、04年2月この項を御覧頂いたお方で東京の「映さん」から、この頁に書かれている飛行機は、キの115「剣」と云う機では?ありませんか?と書き込みを頂き、教えられたアドレスを開きました。60年前のあの飛行機、写真は正に作っていたあの機でした、敵上陸作戦に備えた機だったらしく、終戦でその機会は無くこの「剣」は飛ぶ事はなかった。搭乗して戦死されたお方は一人もなかったことが、判ってその日は興奮してナカナカ寝付けないほどでした。04.4.28

「『戦時中世代は語る』ひろしのページ」
http://www2.odn.ne.jp/~cfn45300/






       灼熱の北朝鮮最後の決戦8月15日

                       小畠 直行
                      (当時:北鮮駐屯、陸軍一等兵、18歳


班長殿も小隊長殿も何も言ってはくれない、ソ連の戦車は何処まで来て居るのだろう、何時戦車の装甲をぶち抜くと云う甲型爆雷は渡されるのだろう。然し何の感情も湧かなかった。死と云う事も考え無かった、唯暑い毎日が過ぎて行くだけでした。早く昼も夜も続く穴を掘っては飛び出す訓練の終わる事を望むだけです。本隊も古兵殿達も皆な山に入って陣地を作って居るそうです。そんな時部隊名が衣師団から襲部隊に変わりました。

古い兵隊の噂ではソ連軍は直ぐ近くまで来て居るらしい、私達北支の現役の戦闘部隊が居るのを知って体制を立て直して居ると話して居ました。古い兵隊は二年戦える弾薬が有ると云って居ました。顔が見える程降りて来た敵機に一発撃っただけで晩飯をくれ無かったのに、本当にそんな弾が有るのだろうか?。背嚢には200発私は擲弾筒その弾を8発持って居ます。此れで勝つ迄戦えと云ったのは誰だったのか、然し其の前に運が良ければ戦車と共に粉々に成る事だろう。運が悪ければ自分の掘った穴で蜂の巣に成る事でしよう。どちらにしても生きては居られない。今に成って考えても解らない死の恐怖は本当に有りませんでした。

国の為天皇陛下の為と子供の時から教え込まれて来た当たり前の日本男児の義務いや権利と思って居たのかも知れません。そして運命の八月十五日が来ました。其の朝は何故か演習に行かずに兵舎に成って居る学校に居ました。学校の校庭で炊事班の兵隊が大きな釜でカビの生えた羊羹を炊いて居たのを覚えて居ます。大変朝から暑い日でした。そんな時本部に全員非常呼集が掛かりました。

山の中腹の平らな所に全員集合して待って居ました。暫くして「天皇陛下の勅語が有るので全員キオツケ」と号令が掛かり前の方でラジオの雑音だけが「ガリガリ」と聞こえて来ました。前の方から「負けた」「降伏した」などの囁きが聞こえて来ました。其れから夕方迄の記憶は全く有りません、おそらく木の下でぼんやり座って居たのでは唯「中国の天津にいるお袋達は大丈夫かな」と考えて居た様に思います。

その晩は山にテントを張って寝ました。夜明け前の三時頃同年兵で同じ幹部候補生の金城君がそーと起こしに来ました。服を着て付いて来いと云います、「今から逃げよう南へ」と強引に手を引っ張ります、山を見れば人影が点々と見えます。僕は「逃げる訳にはいかない」と断りました。彼は「絶対に日本に帰してあげる」逃げないと捕虜になると云いました。彼は慶尚南道の王族の子孫です。「君は帰るのが当たり前だ自分は残る」と無理やり別れました。

其れから間も無く非常呼集のラッパが鳴って逃亡者を捕まえに行けと命令が出ました。もう明るく成って山を登って行く兵隊が沢山見えます、誰も追いかけて行く者は居ませんでした。その日山を下りて元の学校に戻りました。此れから四年余りの間人間では無くなるのです。人権の無い人の哀れさ辛さ惨めさを思い知らされます。





              そうだ帰れるんだ

                         榎本翁市
                        (当時:南海派遣第17軍独立無線)

 昭和二十年八月十五日、独立無線第六小隊のエレベンタ地区無線所で、図らず陛下の御声での、終戦の御勅旨が無線で傍受され、信じられない大衝撃を受けた。

 各部隊は様々な噂で、一時、大混乱に陥った。将校は会議を開き、本部との連絡を頻繁にとった。下士官は集会所で会議、兵隊は只うろうろするばかりだった。夕方になり食糧現地物資採集班とか、開墾班、「貴様等何をうろちょろしとる、六小隊全員隊長宿舎前に集合だ、週番上等兵集合を伝達しろ」と怒鳴っていった。教練班が帰ってきた。何が何だか判らないまま、ただウロウロしていると、週番士官がやってきて、各班の兵舎から、ぞろぞろと兵隊が隊長宿舎に集まり、各班毎に整列した。隊長が宿舎から出て来た、週番下士官が早速「気を付け!」と号令をかけると、隊長は大きな声で、だが静かに、「そのまま、そのままでよろしい」と制し、しばらく沈黙が続いた。短い一時であったが、兵隊は、隊長は何を伝えようとしているのだろうと戸惑った。突然隊長が割れるような大声で、「気を付け!」兵隊は飛び上がるほど、吃驚して思わず不動の姿勢をとった。

 隊長は厳粛な声で、「天皇陛下は・・・」と言って、声を続けた。「本日終戦の御勅旨を全国民及び全世界に表明された、戦は終わった。しかし我が小隊は別命が降りるまで現在通りだ。戦は終わっても軍人として、軍紀を守り規律を厳守すること、以上」言い終わると、いつしか暗くなった夕暮れに消えるように宿舎に戻られた。呆然と立儘していた週番下士官が、慌てて姿の見えない隊長に向かって「隊長殿に敬礼!」と声を上げた。後は何も言わず、外の下士官と共に下士官兵舎の方へ去っていった。困ったのは、兵隊に直れの号令がないので、敬礼した手のやり処が無く、そのままバラバラと解散した。夕食の食事当番兵が炊事場に急ぐのが見えた。

 いずれの班も同じ様だったと思うが、班に帰ると我が班も嵐のようだった。物を投げるもの、泣きながら床を叩く者、様々な光景が繰り広げられた。食事当番が大声で「食事!食事!」と叫ぶと、今までの嵐は、急転直下で声を出す者も居なくなり、皆急ぎ薄暗い椰子油の燈火が照らし出されている炊事場めがけて駆けだした。一番最初に食べ物を見た兵隊が。「万歳!」と大声を上げた。つられるように次から次と全員一斉に理由も判らず「万歳!万歳!」と二ッ葉椰子の小屋が吹き飛ぶかと思うような大声となった。それもそのはず、今までの食事はサツマイモの茎を刻んで、それに小指ほどの大きさの藷を小さく刻んで入れ、塩味の付いた煮物が飯盒に八分目ほどだったのに、何と今夜の夕食は、親指ほどの太い藷が丸ごと二個も付き、それに椰子の芽とパパイヤの白根を刻み、塩で揉んだお新香が付いている。それに気付いた兵隊は万歳どころか、今夜は口を開く者もなくみな平らげて、散り散りに兵舎の方へ引き揚げていった。

 自分も食べ終わって真っ暗な兵舎に帰ってきたが、空襲をおそれて明かりを灯すことが禁じられていたので、夜の暗闇で、只寝るだけだった。みんな串刺しのようになって、ぼろぼろの背嚢とか、土だらけの毛布を枕代わりにして寝ていた。自分も背嚢を枕に機銃で穴だらけの毛布を腹が冷えないように巻き付け、何時も寝ているように横になった。

 時間が経った。いびきが聞こえたり、私語が聞こえて来たりしながらも、静かな夜が更けていった。自分は、眠れないので、隣に寝ている矢戸兵長に話しかけた。無口な矢戸は決して自分から話しかけたことはなかった。「おい矢戸もう寝たか?」「いいやまだ・・・」「貴様どう思う?終戦だと言っていたが、日本は勝って終戦なのか・・・」「いや、負けだ。石黒兵長が言ってたぞ」自分は、矢戸の答えに対して、「そうか負けだと言ってたか・・・負けたとしたら俺達はどうなると思う?」その問に対して矢島は、返事をしなかった。自分は続けた。「俺はなぁ、矢戸、ひょっとしたら日本へ帰れるかと思うぞ。」その問に対してはただ「知らんぞ」とぶっきらぼうに答えただけで向こう向きに寝返った。もう微ないびきが聞こえてきた。

自分は隣の鼾を聞きながら、ああでもないこうでもないと考えを巡らし、結局、走馬灯のように頭の中を駆けめぐるだけで、また元の考えに戻ってきていた。最後に、「そうだ帰るんだよ、帰れるんだ。俺は帰る、五黄の虎だよ、信念を忘れては駄目だ」とまとめ、眠りについた。

筆者のお孫さんから、手記の抜粋をお送りいただきました。





             なんとなく「ホッ」とした

                         石田長昭 

                               (当時:国民学校2年生)

終戦の日は、私は国民学校2年生でした。 

当日の天皇の放送は聞いていませんが、川遊びから帰宅した時、母から知らされました。 当時の私には、戦争の意味も、終戦の意味も、よくわかりませんでした。

私は名古屋に生まれ育ちましたが、名古屋も空爆被害が激しくなり、その年の3月末に、姉と二人で、小田原の伯父の家に、疎開しました。一月後の4月28日に父が、急死しました。父は銀行員でしたが、徴用で飛行機工場に勤めており、その夜勤で、急性肺炎になり、発病1日での死でした。戦争で物資不足、医薬品も無くなっていました。私は父の死は、戦争犠牲者だと考えています。

5月22日、母と妹二人が、自宅で空爆に会い、妹を一人失いました。その日兄は中学校へ行っていて、難を逃れました。母、兄、妹も小田原へ移って、五人家族になりました。

そのような状況の中で、迎えた八月十五日でした。なんとなく「ホッ」とした気分でした。

しかしその後に、苦しい日々がやってきました。敗戦の意味が身に沁みるようになりました。激しいインフレは、父の残したものを、全く価値のないものにしてしまいました。

戦争の発端、戦争の実態を知るようになり、戦争へかりたてた人たち、特に軍人には、嫌悪さえ感じるようになりました。戦争だけは、してはならないことと考えるようになりました。日本は戦争を放棄したのに、世界では、あちらこちらで未だに、戦争が行われています。

私の戦争体験は、まだ軽いほうだった、とわかってくるにつれ、悲惨な戦争を体験をした人々が、その体験を語り継ぐ必要性を痛感しています。このようなページがあることを知って、自分も少し書いておこうかと考えて書いてみました。今後は戦争が行われない、世界になることを祈ります。 





          長春で迎えた八月十五日
           
                        池田武久
                                (当時:国民学校3年生)

1936年丹東生まれで、45年8月15日は長春の我が家で一家4人と近所の人達と、当時のラジオは良き聞こえず、その中でも我が家のラジオが一番良く聞こえたので、正午からの玉音放送を聴き、日本が負けたことを子供心に知った 大人は皆泣いたが子供だった私は泣かなかったように思う

翌日、いやその日から辺りは不穏となりどのくらいの間か定かではないが毎晩夜になると貧しい満人が集団で日本人の家屋を襲ってきた やられた家は風呂場の灰までもって行かれたと聞き及ぶ

やがて収まった後、次はソ連兵の略奪と強姦が毎夜の事となった 私の姉は当時15才だったが、頭の毛を剃り顔に墨を塗って、一歩も外に出なかった しかし日が経つに連れ、ソ連軍がシベリア編成の非正規軍から憲兵もいる正規軍に交代して、事案は多少回復した 一方我が家の前を毎日のようにシベリアに送られる日本兵の捕虜が歩く様子を眺め、我々は通り過ぎた後に落ちている紙片、彼らが歩きながら必死の思いで書いた家族宛の手紙を拾いに行ったものだ 父達はこれを日本人会に届けたが、果たしてそれぞれの家族に届いたか否かは知る由もない

もう一つの悲しいことはその年の秋になるころから北方から何百Kmも歩いて逃避してきた人達の無惨な行列だった 着ているのは、どんごろす(大豆等を詰める麻袋)に首と手に穴を開けたものだった 小さい子供は余り居なかった 途中病気になって死んだり、食べる事が出来ず止む無く満人に預けたり(これが近年親や親族を訪ねて一時帰国した大陸孤児と呼ばれた人達だ) 我が家は空いている部屋をある一家に引き揚げるまで提供していた

未だまだ書きたいことがいっぱいありますが、長くなるのでこの辺で止めます 当稿は殆ど自分で見たことを憶えている事で今日まで忘れなかったのは、大きくなるまで両親や姉から聴いて復習出来ていたためでしょうか





           幼年学校の遊泳演習中に

                            寺谷五男
                              (当時:陸軍幼年学校生徒)

 昭和20年8月15日の終戦を、私は九州の島原湾に面した熊本県宇土郡三角町のある民家で迎えた。

 その年の4月1日、中学校2年を終え熊本陸軍幼年学校に入学し、校外訓練のため遊泳演習に行っていたのである。8月10日現地に到着し約10日間の演習を終え帰校する予定だった。

 当時九州では米軍の艦載機による爆撃が連日のように繰り返されており宿舎の上空も昼夜を問わず米軍機が飛び交っていた。演習中もときどき裏山に避難することがあったし、もちろん、夜は厳重な灯火管制が敷かれていた。

 しかし、その日の夜、教官から「今夜から灯火管制をしなくてよい」と聞かされた。理由を言われなかったので「へえぇ。本当に大丈夫なの?」とみな半信半疑の様子だった。しかし、しばらくして戦局がかなり難しい局面を迎えていることは皆感じていたので、どうやら戦争が終わったらしいということがわかった途端、緊張の糸が切れ、なんとも言いようのない脱力感に襲われた。

 反面,将校生徒としてはまことに不謹慎なことながらが、やっと終わったか、これで家へ帰れそうだ。という安堵感を抱いたのは、未だ14歳だった少年の偽らざる心情だったかもしれない。

 当初の予定を繰り上げ、翌朝帰校の途についた。往路は熊本から列車で三角町まで来たのだが、帰りは途中鉄橋が空爆のため数箇所で破壊されていたため2〜3回列車を乗り継ぎ、学校に辿りついたのは午後2時過ぎだった。

 まもなく大講堂に全生徒が集合を命ぜられ、主任教官より終戦の詔書奉読、わが国が米英支ソ4ケ国と和を結んだ旨聞かされたのである。





          軍国主義魂は急速に消えて

                           長岡 豊

                                 (当時:中学校4年生)

 当時、私は学徒動員で、舞鶴海軍工廠の福知山分工場で働いていました。当日は、夜勤のため、正午の玉音放送は家で聞きました。なんとも解りにくい放送でしたが、日本が負けたのだということは、わかりました。

 工場に配属されていた海軍将校を中心として、鬼ケ城へこもり、米軍を迎え撃つことになったという噂が流れました。鬼ケ城とは、福知山近郊の山で、昔、大江山の酒呑童子の子分がいたという山です。私も、それに従うことになる覚悟で、翌日、工場へ行ってみると、海軍将校の姿はありませんでした。少年の軍国主義魂は、それ以来、急速に消えてゆきました。

 これからの日本は、どうなるのかという不安のほかに、もう一つ、南方へ出征していた父は、果たして日本へ帰ってくるのか、再び会えるのかという不安で、いっぱいでした。

 その後、半年ほどたってから、父は、すでに1年前に、ニューギニアで戦死したという公報が入りました。戦死した正確な日や場所は、わかりません。多分、餓死または病死だと思われます。遺骨箱が届けられましたが、中には、赤い石のかけらが入っていました。

 その後、20年ほどたってから、父を偲ぶ歌をつくりました。次は、その一部です。

 ・ 戦(イクサ)やみ 焦土の国に 帰り来し 遺骨は赤き 一片(ヒトヒラ)の石

 ・ 雨に濡れ 月に光れる ジャングルの 骨慟哭し 幾年をへぬ

 ・ ジャングルの 木洩れ日やさし 骨の辺(ヘ)に 虫の命の うごめける思う

 骨は、すでに、ジャングルのなかで自然の一部となり、木々や虫と、やすらかに共存しているはずです。そのままにしておくことが、私の願いです。遺骨収集のために苦労するよりも、その苦労を平和のために捧げることが、私の願いです。 





             あの日も暑かった

                          井上圭史

                                (当時:国民学校6年生)

 むらの神社の境内で、二人の先生が一年生から六年生までの生徒の面倒を見てくださっていた。8月だから当然夏休みのはずだったと思うが、その日も境内に敷かれた筵の上に座っていた。大きな楠の樹から蝉時雨が降り注ぐ中、それぞれの学年に応じて先生の指導があったが、ややあって、「今日お昼に、天皇陛下のお言葉がラジオで放送されるから、早めにお家へ帰って聞くように」と話されて、それぞれ早めに帰宅した。

 その頃には、広島や長崎で新型爆弾が投下され、大きな被害があったことは新聞にも出ていて、大人たちの噂話でも聞いていた。爆弾が破裂する光を直接浴びなければ、まずは大丈夫。それに白いものを羽織っておるのも被害を少なくする手立てだとか。神社からの帰り道、建物や電柱の影を選って、小走りに走って帰ったのを覚えている。

 昼ご飯を食べると、母に糊の効いた開襟シャツに着替えさせられて、ラジオの前に妹弟らと正座させられた。当時京都市内に住んでいた母の妹の、叔母夫婦も居合わせていた。初めて聞く現人神・天皇の、ラジオから聞こえる録音の声は厳かでもあり、不思議な気持ちにさせられた。しかし聞き終えても国民学校6年生の胸には、語られた意味内容は皆目届かなかった。それは子供だけではなく、母や叔母夫婦らも戸惑っている様子だった。「最後の一人になっても戦う覚悟だ、といわれたような・・・」などと言い合っていた。

 やがて、夜になって、役所勤めの父が帰ってきて、戦争は負けて終わったといった。なんとなく気が抜けたような気持ちから、これで良かったんだという気持ちになっていった。灯火管制で電灯の周りを覆っていた、筒状の黒い布を取り払ってもいいというので、随分久し振りに電灯が顔を見せることになた。暗かったそれまでの部屋が、光あふれてまばゆいばかり。「うおっ」と大きな声を上げたのを今でもはっきり思い出す。

 後で考えると、戦時中の暗さを払拭して乾いた砂に吸い込まれる水のように広がった明るさが、戦後の民主的な風潮を象徴しているかのようだった。わたしの人生の原点も、あの畳に落ちて部屋中が明々と広がったあの日のまばゆいばかりの光に始まったといっていい。それは重苦しい戦雲、国家の圧力などが一気に取り払われ、解放された歴史的な日であり、平和を希求する民主日本の誕生の兆しだったのである。

この文章は、井上さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。

「午後のアトリエから」
http://d.hatena.ne.jp/naniwanoesi/