トラトラトラ爺の戦争体験記 |
1937年から敗戦まで8年間も電信兵として、中支戦線、南方戦線で戦った体験を、多くの写真と共に綴った |
92才のホームページ |
1938年以来、二度にわたる召集で、中国戦線において戦った体験記が記載されている |
おやじの戦記 |
日中戦争に従軍した兵士が遺した、1938年から39年にかけての日記。夫人からの手紙も紹介されている |
父の軍隊日記 |
1937年日中戦争勃発の直後応召し、戦車兵として従軍、翌年8月除隊するまでの日記。ただし1938年1月から4月までは、南京大虐殺の関係からか、切り取られている |
参戦記 |
1937年応召、輜重兵として中国戦線で転戦し、負傷を負って1939年帰国するまでの体験記 |
日中戦争で戦死した 一兵士の手紙 |
1937年8月に召集を受け、中国戦線に従軍した一兵士が、1938年8月戦死するまでの1年間に、妻子など宛てに出した手紙の内容を公表 |
戦地からの便り |
1944年の湘桂作戦に従軍し,戦死を遂げた陸軍士官が、中国湖南省などの戦場から妻子に送った20通の手紙を公開 |
軍隊まんだら |
1944年、臨時召集された元陸軍兵士が、2年余にわたる中国戦線での体験記。戦争や軍隊の内幕が生々しく語られている |
きんちゃんパパのお部屋 |
1942年召集され、中国戦線を転戦、負傷して終戦を迎えるまでの従軍記。戦争や帝国陸軍の実態を鋭く語る |
軍隊生活全貌 |
1942年の応召から復員までの中国戦線での戦闘体験記。父上がワープロに残された遺稿 |
人生のひとこま -記憶綴り- |
1943年30歳で補充兵として応召、中国を転戦して、終戦後タイで捕虜生活を送り復員するまでのエピソードを綴る |
戦争体験記 |
1943年入隊後、中国戦線で戦った体験記。入隊前3年間、徴用により呉海軍工廠で働いた体験記もある |
初年兵の戦記 |
1944年12月現役兵として召集後ただちに中国戦線へ送られ、中国中部での戦闘に参加、捕虜生活を経て復員するまでの体験記 |
日中戦争・第2次大戦従軍記 |
1937年、召集を受け中国へ出征、南京攻略にも参加。除隊後1941年に再び応召、満州から南方に転戦し、シンガポール攻略にも参加するという、二度にもわたる従軍記 |
父の太平洋戦争従軍記 |
1941年入隊以降、航空整備兵として、旧満州、スマトラ、シンガポールなどを転戦した亡父の体験記 |
戦時中の体験記 |
旧満州へ就職のため渡り、1944年現地召集で入隊、中国戦線で戦った体験記 |
私の軍隊生活 |
1944年、中国の華北交通勤務中に召集され、中国各地で戦った体験記 |
石坂准尉の八年戦争 |
1937年入営後、中国戦線、ノモンハン事件に従軍、戦争末期に沖縄・宮古島へ転進し、終戦を迎えるまでの体験を語る |
戦中・戦後をかえりみて − 侵略戦争正当化脱却のために− |
小学6年生の時の満州事変から、1942年応召して中国戦線で戦うまでの体験と思想形成、そしてその反省を綴る |
日中戦争の中の青春 |
元中支派遣陸軍特務機関員の1939年から1948年にわたる体験記。特務機関員から見た日中戦争や日本軍の実態 |
南京は我が青春の故郷なり -女子軍属の見た支那派遣軍総司令部- |
1942年陸軍の軍属に志願し、1946年に復員するまで、南京の支那派遣軍総司令部に勤務した体験記。女性らしいきめ細かさで、裏方から見た軍隊の内部を描く |
生還 |
ノモンハン事件、日中戦争、太平洋戦争を通じて、生死を分けた3度の体験を綴る |
戦争回顧 |
戦争中「空の神兵」と称えられた、落下傘部隊の一員として、スマトラ島パレンバン精油所へ落下傘降下した体験 |
翔んだ青春−父が体験したインパール作戦− |
約7年間の軍隊生活を送った元陸軍兵士が、陸軍史上もっとも悲惨な作戦といわれるインパール作戦の体験をワープロでまとめた |
インパール作戦―父が語る戦争体験記― |
ビルマ(現ミャンマー)におけるインパール作戦の戦闘体験記。1943年の入隊から復員まで |
我が戦記 |
インパール作戦に参加した元兵士による、英軍の空襲を避けながら敗走を続けた日々の体験記 |
私の戦争体験―インパール作戦 |
動けなくなった味方の兵士を射殺するなど、インパール作戦に参加した元兵士による、悲惨な体験記 |
一兵士の戦争体験 ビルマ戦線 生死の境 |
1943年の応召から復員まで、ビルマ戦線で戦った一兵士の体験記。敵とマラリアと飢えとの戦い |
父と子の戦争物語- パッチョ傘に賭ける命 |
ビルマ戦線において、前線の通信兵が1ヶ月近くかかって敗走を続け、本隊に合流するまでのエピソードを綴る |
私のビルマ戦記 |
1943年陸軍予備士官学校を卒業、翌年からビルマ戦線に参加、1947年に復員するまでの体験記。過酷な戦闘、野戦病院、捕虜収容所の思い出など。 |
暗号書を死守して |
1942年、陸軍少年通信兵学校へ入学、1944年卒業と同時に17歳でビルマに出征、敗走を重ねながら無事生還した体験 |
私のビルマ回想録 |
1944年7月、旧満州からインパール作戦の後方支援に転進、敗戦までの敗走の日々を絵物語で表した |
父の残したビルマ戦記 |
1943年志願して陸軍に入隊、ビルマ方面に派遣され、前線で負傷。重傷の身で敗走を続け、無事生還するまでの体験記 |
彷徨ビルマ戦線 |
インパール作戦で敗れ、飢えと戦いながら、ビルマからタイまで敗残の後退を続けた元陸軍将校の体験記 |
ミチナの木盃 ―祖父の手記から― |
ビルマ戦線で戦った陸軍将校の体験記。部下を撤退させた後自決した水上源蔵少将を追憶して |
五期主計雲南始末記 |
主計将校として、ビルマ・雲南(中国)戦線に従軍した体験記 |
田畑敏雄さんの戦場スケッチ インパール作戦編 |
インパール作戦に従軍した元兵士が描いた戦場のスケッチ |
ビルマ戦争と日本語など |
ビルマでの戦闘や戦時中の日本語学校で教えた体験を語る。詩人・じっこくおさむ(故人)の講演原稿
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ビルマ派遣の陸海軍の幹部たちの酒池肉林の遊びぶりを、当時の新聞記者が証言 |
生きている間にこの手記を |
1944年フィリピンに向け出陣中、乗っていた輸送船が敵潜水艦により撃沈され、36時間もの間ただ一人で太平洋を漂流、奇跡的に助けられたという貴重な体験記 |
父のレイテ戦記 |
フィリピンのレイテ島における壮絶な戦闘の体験記。戦後捕虜収容所生活の後復員された亡き父上の手記に、各種の資料を補完してまとめられた |
大戦の果ての山野に |
陸軍主計将校としてフィリピンに従軍、敵と飢餓と戦いつつ、ミンダナオ島の山峡の密林を踏破した、終戦に至る最後の数ヶ月の体験。遠い日の東アジアでの後編 |
セブの学徒兵 |
1943年、学徒動員により陸軍船舶工兵となりフィリピンのセブ島に出征、戦局不利となって、最後の斬り込み攻撃に参加するも、九死に一生を得るまでの体験記 |
続 独混第二六連隊比島の苦斗 |
フィリピン戦線で隠密部隊(日本軍の公式な記録にも残っていない)といわれる連隊の兵士として戦った体験記。戦死した連隊長のお孫さんのHPから |
青春兵系譜 |
1945年陸軍に入隊後、航空隊の地上勤務兵として、旧満州から南方戦線を転戦した約4年間の思い出を綴る |
サイパン島の怒号 |
1944年応召し、二等兵としてサイパン戦線でいく度かの死線を奇跡的に乗り越えた末、アメリカ兵に捕らえられ、ハワイ、サンフランシスコの捕虜収容所へ送られたという体験記 |
サイパン島・17歳の敗残記 |
17歳で海軍軍属として、サイパン島に配属、米軍の攻撃に合い、餓死寸前で投降、ハワイで収容所生活を送った体験記 |
「従軍手帖」 六十年後に届いた伝言 |
サイパン島で玉砕した兵士が、最後に壕中で従軍手帖に書いた、遺書ともいうべき手記 |
ああ死の島テニアン |
海軍陸戦隊の兵士として、テニアン島で戦い、味方が次々と玉砕していく中、必死の逃避行を続けた末、ついに投降、ハワイ、米本土ででの捕虜生活を経て、帰国するまでの体験記 |
祖父の硫黄島戦闘体験記 |
4度目の応召で、硫黄島へ従軍、玉砕の切り込み隊として敵に突撃するも、重傷を負い、米軍の捕虜となって、ハワイ、米本土ででの捕虜生活を経て、帰国するまでの体験記 |
「柵條の道」硫黄島戦を目前に若き将校が残した記録 |
硫黄島で玉砕した若い小隊長が残した1944年4月21日から、米軍上陸攻撃寸前の1945年2月14日までの手記 |
風雲急!軍隊へ |
1939年入営後、旧満州へ出征、予備士官学校を経て、父島で終戦を迎えるまで。伝記「悔いなき七十年」の中から |
木内 信夫の わんぱく物語 |
1938年の少年時代から、少年飛行兵として満州へ出征、そして旧ソ連の捕虜となるまでを絵物語で描く。旧ソ連抑留画集の前編 |
北満からの手紙 |
若い日本陸軍兵士が日ソ国境から、故郷の父母に宛てた143通の手紙。
そこには兵役後の夢が、青年らしい恋の悩みが、綴られている(連載中) |
戦争体験を語り継ぐ |
生い立ちから、予備役の陸軍主計将校として召集され、旧満州の関東軍に赴任、戦後復員してからの生活までの半生記。旧関東軍の内情が詳しく書かれている |
私の戦争記録 |
1941年入隊以降、樺太、千島での守備に当たり、終戦でソ連軍の捕虜になるまでを、軍隊生活の内幕など、エピソードで綴る。シベリア、苦闘の記録の前編 |
太平洋戦争日誌 |
陸軍の戦闘機乗員として、1943年から東南アジア各地を転戦、シンガポールで終戦を迎え、その後無人島で捕虜生活を送るなどの体験を綴る |
私の太平洋戦争 |
1939年応召後、中国戦線からニューギニアへ転戦、終戦でオランダ軍の捕虜となって復員するまでの体験記 |
地獄からの生還―ガタルカナル戦 かく生き抜く |
海軍航空隊工作兵としてガタルカナル戦線に参加、日本軍の約半数が飢え死にしたという悲惨な戦いからの、文字通りの生還記 |
ガダルカナル |
1942年11月ガダルカナル島へ上陸後、飢えと敵と戦い、所属中隊114名の内の生還者12名の一員として、文字どおり九死に一生を得て撤退するまでの3ヵ月間の悲惨な体験 |
私の戦争体験 |
ガタルカナル島の激戦や少年航空兵としての体験など |
福岡ホニアラ会 |
ガタルカナル作戦に従軍した歩兵124連隊遺族会のサイト。ガタルカナル戦の体験記がある |
弟との再会 |
ブーゲンビル島を守備していたおり、船を撃沈され、泳ぎついた弟と偶然再会した体験 |
戦いの庭 ブーゲンビル島 私の従軍記 |
1940年から、中支戦線から、南方戦線・ブーゲンビル島で戦い、復員するまでの、元陸軍下士官が残した手記 |
東南アジア特集日記 |
1944年の入隊から、南方戦線に転戦、復員するまでの日記。軍隊生活、終戦後の捕虜生活が克明に描かれている。亡くなった父上が残された日記をHP化 |
五十五年前の日記帳 |
1943年、28歳で戦死した陸軍軍人が残した日記。10ヶ月にわたり、南太平洋戦線で転戦した様子が詳しく記されている |
父のニューギニア戦記 |
約1200名の隊員の内8名しか生き残れなかったという壮絶なニューギニア戦線を戦った大隊長の子息が、父の手記、資料をまとめた |
パプア・ニューギニア南十字星の下で |
東部ニューギニアで、飢餓状態になりながらも、生きて帰ることの望みを捨てず、終戦後は捕虜収容所でしたたかな生命力を発揮。悲惨ではあるが、ちょっと笑える悲喜劇生活記録 |
良人兄追悼記 |
ニューギニア戦線で戦死した父を偲んで叔父が書いた追悼記。戦地からの葉書など |
ニューギニアに残された言葉―米陸軍婦人部隊の兵士たちに読まれた一日本兵の日記― |
戦死した日本兵がニューギニアで残した日記の一部。英訳され、米陸軍婦人部隊の資料に残っていたもの |
あぼ’sじーちゃんの太平洋戦争体験記 |
マーシャル群島のニューブリテン島の戦闘に参加、1000人に1人という奇跡の生還を果たした体験記。お孫さんがまとめた |
新・戦陣の断章〜SAMURAI SPIRITS〜 |
元陸軍中尉が書かれた、ニューブリテン島での戦闘や戦後の捕虜生活でのエピソード(未完) |
ハルマヘラ日記 濠北戦線700日 |
中国戦線から転進し、ニューギニア東部のハルマヘラ島の守備につき、復員するまでの約2年間を描く、元陸軍士官による絵日記。縦書きの電子本風のサイト |
大東亜戦争従軍記 北満からインドネシアへ |
1940年入営後、北満州からインドネシアへ転戦し、復員するまでの6年間の記録 |
玉砕の島「ビアク島」からの生還 |
1942年召集され、中国から南方のビアク島へ転戦、壮烈な戦闘の後、生存率僅か0.6%の一人として生還するまでの元陸軍兵士の体験記 |
わがトラック島戦記 |
1943年海軍予備学生となり、館山砲術学校で教育を受けた後、トラック島の防空隊に赴任、そこで終戦を迎えるまでの体験記 |
南ボルネオ戦線 |
旧海軍・第22特別根拠地隊が、終戦後、連合軍に提出した戦闘経過報告書や、当時の陸海軍の司令官たちの所見などの草稿 |
身近にあった戦場 |
1942年から約4年間、旧蘭印のセレベス島で現地の日本商社の社員として体験した戦争を綴る |
少年志願兵 |
14歳のとき、志願して少年電探兵となり、いくたびかの死線を越えて復員するまでの体験記 |
わが青春の追憶 一水兵がとらえた太平洋戦争 |
1941年、志願して呉海兵団へ入隊してから終戦まで、海軍での訓練と戦闘の体験記。父の自費出版の本より |
海風とわが青春 |
1942年横須賀海軍航海学校卒業後、信号員として駆逐艦に乗り込み、ミッドウエーなど南方海域で、戦闘や輸送に当たり、乗艦が撃沈されるなどの体験 |
父への手紙 |
1935年海兵団に入団以降、1944年11月マニラ沖で戦死するまでの亡父の戦跡を追い、まだ見ぬ父への手紙としてまとめた |
戦記(なにわ会) |
なにわ会(海軍兵学校72期、海軍機関学校53期、海軍経理学校33期の合同クラス会)の会報に掲載された会員の戦争体験記 |
パラオ恋しや ―戦陣に在った私の青春― |
1945年、海軍経理学校に入学、そこでの教育訓練生活や、卒業後の艦上勤務でのマリアナ沖海戦の体験などを語る |
戦艦武蔵、最期の地獄絵図 |
1944年10月、戦艦「武蔵」の帰らぬ出撃に参加し、九死に一生を得た、元一等水兵の体験記 |
戦艦大和・生還者たちの平和希求 |
毎日新聞が、06年11月〜12月に連載した、戦艦大和の元乗組員や遺族へのインタービューによる記事 |
軍艦敷設艇「立石」の思い出 |
1943年志願して海軍に入隊、軍艦敷設艇「立石」に乗艦して南方へ、そしてナトラン沖で敵の攻撃を受けて沈没、泳いで助かった体験 |
存在した航空隊 |
旧制中学4年生のとき、予科錬に入隊、海軍飛行兵として、沖縄戦に参加した体験記。亡くなった父上の遺稿 |
蒼空の果てに |
予科練と特攻隊員としての訓練生活の体験を、豊富な写真、資料を混じえて、克明に記録。特攻隊員たちの遺書、遺稿なども紹介されている |
船狂ち爺さんの 「私の予科練記」 |
1945年3月、予科連に入隊後の訓練の日々の体験記 |
老生の思い出記 -予科練甲飛13期生の記録- |
旧制中学4年生で予科練を志願、厳しい訓練の後、出撃命令を待つ間に終戦を迎えるまでの記録 |
花の予科練 |
1943年10月予科練に入隊後、結局飛ばずに終戦を迎えるまでの体験記 |
KORYU 5 (特殊潜航艇) |
予科錬として入隊したものの、特殊潜航艇「蛟竜」の乗員として選抜され、潜水学校や特攻隊員としての訓練などを受けた体験記 |
特殊潜航艇「蛟竜」(海軍の自分史) |
1944年海軍予備学生として大竹海兵団に入団、旅順で教育中に特攻を志願して、特殊潜航艇「蛟竜」の訓練中に終戦を迎えるまでの自分史 |
荒鷲の賦 |
1944年5月予科練に入隊、11月卒業するまでの訓練の日々の日誌 |
父の手記 〜 海軍予備学生 |
1943年9月、海軍予備学生として入隊、特殊潜航艇要員に応募し、水雷学校などでの訓練を経て、人間魚雷「海竜」の乗員として待機中に終戦を迎えるまでの手記 |
伊原先生のページ |
1943年15歳で予科練に入隊、特殊潜航艇「海竜」の乗員となり、出撃待機中に終戦を迎えるまでの体験記 |
私の体験した大東亜戦争 |
1944年、14歳で海軍特別年少兵として海兵団に入団、10か月の訓練の後、特攻戦隊に配属され終戦を迎えるまでの体験記 |
回天特攻隊 |
特攻隊隊長として戦死した河合大尉の残したアルバムなど、人間魚雷「回天」の詳細な記録 |
かわたな 知られざる特攻艇 |
二人の女子大生が、旧海軍の魚雷艇特攻隊をテーマに、関係者のインタビューなどを元にまとめた卒論研究 |
嗚呼!童顔の戦士 |
陸軍の特攻艇隊員としての訓練を受けた、陸軍船舶兵特別幹部候補生数人によるそれぞれの戦争体験記 |
飛龍特攻の記 |
陸軍特別幹部候補生として、特攻爆撃機に搭乗して出撃、2度も事故のため生還した後、離陸寸前に命令で降りた爆撃機が墜落するなど、奇蹟の体験記 |
私が陸軍特別幹部候補生であった頃の体験記 |
台湾出身の筆者が、旧制中学5年生のとき、陸軍特別幹部候補生に志願し、本土防衛に備えて訓練の日々を送った体験記 |
学徒出陣体験をきく |
高校の授業の一環として聞いた、軍国主義教育や学徒出陣の体験談 |
厚木に Z旗が揚がる |
1942年に海軍に入隊、整備兵として、特攻機などの整備に当たった体験記 |
神風 |
陸軍・海軍の特別攻撃隊(特攻隊)を後世に伝えようとする記録。特攻隊員の遺書やエピソードが紹介されている |
知覧特別攻撃隊 |
「知覧特攻平和会館」に納められている、陸軍の特攻隊員たちの遺詠、遺書 |
赤トンボ教官の思い出 |
海軍予備学生から美保空練習航空隊の操縦教官となり、後輩の訓練に当たった体験 |
太平洋戦争の真実 |
日本軍・連合軍、双方の戦争体験者の証言を元に構成された、戦争の各局面の解説 |
海軍レーダー 徒然草 |
元海軍電測兵による旧海軍の電波探信儀(レーダー)の詳細な解説 |
狩り立てられた編集者 |
戦争末期、「文芸春秋」編集長だった池島信平が召集されて海軍に入隊、その新兵としての体験記 |
陸軍飛行第244戦隊 |
1941年、首都防空を任務として東京調布飛行場で編成された陸軍飛行隊の記録 |
幻の航空通信聯隊 |
1945年4月現役召集、三重県の第七航空通信連隊で約3カ月間の通信技術の教育訓練を受けた体験記 |
開戦直前の「軍人日記」から |
旭川の部隊に属していた一兵士の、1946年6月から12月までの日記の紹介 |
兵士の目から見た東京大空襲の記録 |
旧近衛騎兵連隊の兵士が、再三にわたる東京への空襲で被爆した体験記 |
兵の目から見た戦争 |
「心ならずも」軍役に服した兵士たちの目から見た軍隊生活や上官の内情。学徒出陣した元陸軍下士官の体験から |
平岡久の「あの戦争 あの軍隊」 |
1940年旧満州で現地入隊した現役兵時代の体験から、軍隊生活の内情を生々しく描いている。2度目の召集以降の体験については、「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」を参照 |
私の軍隊生活 |
旧陸軍の見習士官が、新設連隊の連隊旗手として宮中で連隊旗を拝受した思い出など |
修養日誌 |
1942年野戦重砲隊に入隊してから、経理部幹部候補生に合格した時代の日記。心満たされない戦時のインテリゲンチャの真情が率直に書かれている |
寒かった陸士時代の冬 |
終戦直前の陸軍予科士官学校の厳しい教育の体験 |
電子耕*戦争を語り継ぐ |
軍国少年だった少年時代から、1944年飛行兵として招集され、仙台航空予備士官学校で敗戦を迎えるまでを綴る |
天皇陛下と大福餅 |
航空士官学校の生徒が、天皇の神格を否定する発言をし、謹慎処分を受けるが、時の遠藤三郎校長がそれを評価したという体験 |
私の東京陸軍幼年学校 |
終戦の年に、東京陸軍幼年学校へ入学、僅か半年間の幼年学校生活であったが、強烈な思い出となった |
南麓日記 戦前篇・戦中篇 |
自分史の一環。旧制中学から海軍兵学校へ、そして戦艦、空母、潜水艦と乗務して、戦った体験を語る |
原点/1945年8月15日前後 |
原爆、終戦など、戦争末期の海軍兵学校生活の思い出 |
私の昭和史 ‐第1部- |
出生から、1945年海軍兵学校へ入学、そして終戦を迎えるまでの自分史。海軍兵学校の厳しい教育が語られている |
糞まじめな蝶 1.死のための生 |
自伝的小説のうち、軍国主義教育を受けて育った少年時代から、海軍経理学校で終戦を迎えるまで |
昭和18年11月21日の学徒総出陣の答辞 |
学徒出陣の壮行式で、学徒代表として読まされた答辞をめぐって |
「学徒出陣」56年目の証言記録 |
1943年10月、雨の神宮外苑 で行われた学徒出陣の壮行会の写真と、出陣学徒や見送った女学生の証言 |
おばあちゃんのお話 |
戦時中従軍看護婦として、中国の陸軍病院に勤務した祖母から聞いたお話 |
従軍看護婦 |
ビルマにおける元従軍看護婦の体験記 |
陸軍潜水輸送艇 『まるゆ』8号艇の航跡 |
戦争末期、輸送用として建造された、珍しい陸軍の潜水輸送艇の艇長の体験記 |
硝煙の海 |
戦時中通信士として陸海軍の徴用船に勤務、米軍機の空襲で撃沈されるなどの数々の体験を綴る |
14歳私の戦争 |
1944年、志願して軍属となり、海軍輸送船に船員として乗船、九死に一生を得た体験記 |
戦時下に喪われた日本の商船 -近代化遺産ルネッサンス− |
戦時中、輸送船や病院船として軍に徴用され、敵に撃沈された商船の記録 |
戦没船データベース |
戦時中、陸海軍に徴用され、戦没した商船のデータベース |
戦没した船と海員の資料館 |
戦時中、陸海軍に徴用され、戦没した商船とその乗組員のデータ |
DIG 戦争体験を掘り起こす会 |
15年戦争を戦った兵士たちの体験を記録に残す会。サイト内に多くの体験記、聞き書きがある |
戦場からの証言 |
「戦場体験放映保存の会」が作成した、戦場体験者のビデオ証言集。(証言者募集中) |
山梨県河口湖地域の軍隊体験者による、戦地やシベリア収容所での体験記 |
河口湖地域で昔、戦地に行った時の体験記 |
戦争体験者からの聞き取り |
三重県の白浦小学校の児童たちが、地域の人たちから聞き取った戦争体験 |
回想録……ドキュメンタリー |
12人の軍隊体験者からの聞き書き |
14歳で兵士になった ―少年兵たちの足跡 |
十代の前半で志願して兵士になった少年兵たちの記憶と足跡を追う。07年8月の神戸新聞の連載記事 |
千葉県の戦争遺跡 |
千葉県内にある旧軍の施設などの戦争遺跡を紹介 |
太平洋戦争写真展 |
東南アジアでの戦闘や戦地のでの生活を写した報道写真130点 |
岸幸一コレクション −南方関係軍政・海軍資料を中心に |
日本占領下の東南アジアにおける軍政関係、開戦前の海軍の南方政策などに関する一次資料が画像ファイルで見ることができる |
吉川英治南方紀行日誌 |
作家の吉川英治が、1942年8月従軍記者として南方戦線を一巡した時の日誌 |
旧日本軍人の遺留品 |
戦後アメリカ兵が本国へ持ち帰った旧日本軍の将兵の遺留品を公開。元の持ち主の情報を求めている |